はんなりんに捧げる
この本の目的はチアの歴史からチアの未来を知る事にある。
歴史を知る者は未来を知る事ができる。 なぜなら、歴史は繰り返すからであり、過去にどこかで起こった出来事は、未来のここで起こる出来事だと考えられるからである。 例えば、未来のチアは選手と付き合う事が禁止される事になるであろう。 というのも、チアとデートしていた選手が試合に遅れ、チームが激怒したという事件が過去に発生したからだ。 チアの地位が向上し、選手とデートできるようになった場合、ここでも同じ事件が発生するはずである。 過去の歴史を知る者のみがそういった未来を事前に洞察し、万難を排して、チアをより良くする事が可能になるのである。
この本では、チアに起こった4つの大きなイベントを振り返る事により、その歴史を追体験してゆく。 1つ目はチアの誕生である。チアは1800年代後半にニュージャージー州のプリンストン大学で(アメリカン)フットボールの選手が自チームを鼓舞した時から始まった*1。 2つ目はチアの制度化(システム化)である。トライアウトと商業化が確立する事によってチアリーディングは完成し、世界中に拡大した。 3つ目はダラス・カウボーイズチアリーダーズの誕生である。DCCはそれまでの学生チアを否定し、チアをファンの恋人と定義付けた。 4つ目は日本のプロチアの誕生である。日本のプロチアはアルビレックス新潟によって始まり、はんなりんによって完成した。 これらは第1章から第4章に分けて語られる。
第1章では、1800年代の大学におけるチアの始まりと、その後の、高校、中学校、小学校への拡大について言及する。 男子大学生から始まったチアは男女混合を経て女性化し、ソングリーディング、ドリルチームへと横に拡大した。 さらに、チアを教育の一環と考えた教育者達が高校、中学校、小学校にチアを持ち込み、縦にも拡大した。 これらの拡大を当時の社会的背景と共に説明する。
第2章では、トライアウトと商業化によって制度化(システム化)され、パッケージとして完成したチアについて言及する。 トライアウトとは選抜試験であり、時代に合わせて改良されたが、いまだに人種差別の影を落とす。 チアをビジネスとしたのはローレンス・ハーキマーであったが*2、そこに運動要素を付加し、 現代的に発展させたのはジェフ・ウェッブであった*3。
第3章では、プロフェッショナル・チアリーディングのダラス・カウボーイズチアリーダーズについて言及する。 最初NFLで実施していたチアは高校生のチアであったが、ダラス・カウボーイズのテック・シュラムが高校生チアを一掃し、 グラマラスな「恋人」を表現する現代的プロチアスクアッドを誕生させた。 以後、全てのプロチアはダラス・カウボーイズチアリーダーズの影響を受ける事になる。
第4章では、日本のチアリーディングの歴史について言及する。 日本ではアメリカのチアリーダーの見た目だけを真似したチアガールから始まった。 その後、チアガールはアメリカのチアのようなリーダー(指導者)を目指すのではなく、チア(応援)を主目的として発展した。 日本のプロチアはアルビレックス新潟がアメリカからプロチアを持ち帰って始まった。 持ち帰られたチアは「健全とセクシー」のセクシーが欠けていたが、「健全とアイドル」としてはんなりんが日本のプロチアを完成させた。
チアリーディングは1869年11月6日のプリンストン大学vsラトガーズ大学のフットボールの試合で始まった。 その試合における最初のチアリーダーは来場していた観客であった。 1869年と言えば日本では江戸時代が終わったばかりの年であり(明治維新が1868年)ちょんまげを付けた人達がまだ歩いていた頃である。 当時のアメリカは南北戦争で大揺れした時期であり、戦地から帰ってきた学生が軍隊で使用していたロコモティブ (戦場での誤認を防ぐために単語をスペルで発声する事。JAPANなら、ジェイ・エー・ピー・エー・エヌと発声する。) をスポーツの試合で披露し、それがこんにちのチアリーディングの始まりとなった。
自然発生的だったチアリーダーを大学が任命するようになり、男性チアリーダーは大学を代表するエリートと認識されるようになった。 チアリーダーはもともと試合会場で自然に発生していたものだったが、それをリーダーシップ、人気、カリスマに基づいて、 大学が正式に選抜する事にした。 これによってチアリーダーは大学におけるリーダーシップのシンボルとなった。 そういったチアリーダーは、企業経営者や政治家など、社会における知的職業で成功するようになる。 なぜなら、スポーツにおけるチアのリードが、社会での人々のリードにつながったからである。 また、観客とスタジアムの規模の拡大が、チアリーダー(単数)をチアリーダーズ(複数)とした。
女子大学生のチアリーダーズは1923年にトリニティ大学サンアントニオ校で誕生したと考えられる。 女性のチアリーダーは男女混合スクアッドの一員から始まり、大衆エンターテインメントへの女性の進出と共に チアリーディングでも女性が増加する。 また、1941年の第二次世界大戦は女性チアのチャンスをさらに拡大させた。 その後、1975年にミシガン大学が男女混合の伝統を終えた時、チアリーディングは女性のものとなった。
アメリカにおけるチアリーディングの変遷を次のように図示する。
図:チアリーディングの変遷 1869| 男性一人のチアリーディング | | | +-------------------+-----------------------------------------------------+----------------------------+ | | | | | 1920| 男性チアリーディング 男女混合チアリーディング | | | 体操 体操 | | | | | | | 1930| | | | | | | +---------------------+ | | | | | | | | 1940| | | チアリーディング ソングリーディング ドリルチーム | | | 女性、体操 女性、歌 女性、フォーメーション | | | | | | 1950| | | A'------>チアリーディング<---------ソングリーディング A<-------+ | | | 女性、ダンス、 女性、ダンス | | | | フォーメーション、 | | 1960| | | 体操 | | | | | | | | | | | | | | 1970| | | | +--> プロチアリーディング <--+ | * * | | 女性、ダンス、 | | | | フォーメーション | | | | | | 1976| | | プロチアリーディング | | | | 女性、ダンス、 | | | | フォーメーション、 | | | | グラマラス | | | | | | | | | | | 現代|----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
チアリーディングはマスコットやフラッシュカードといった、別の形態のチアリング(応援)も生み出した。 マスコットとは、着ぐるみに入る事により、キッズにアピールしたり、チアリーダーズには不可能な笑いを供給するチアリングの一種である。 アメリカではマスコットもチアリーダーズの一員であり、チアキャンプ同様、マスコットキャンプも存在する。 フラッシュカードとは、制服の上着を着たり脱いだりする事によって、人文字やコレオグラフィ(絵)を作り出すチアリングの一種である。 日本では上着の代わりに色の付いたプラカードを上げ下げしたり、表裏を反転させたりするフラッシュカードがよく用いられる。
1800年代のアメリカは南北戦争を経験し、その数年後に最初のチアが始まった。 1776年「全ての人間は生まれながらにして平等である」とうたって独立したアメリカだったが、女性、奴隷、先住民は例外であった。 1807年、イギリスが奴隷貿易を廃止し、奴隷解放の気運が高まる。 工業化の進んだアメリカ北部は奴隷制を廃止しても機械が代わりに働き、困る事はなかった。 しかしながら、綿花などを栽培していたアメリカ南部は奴隷の手作業の労働力を必要としていた。 1861年、奴隷制をめぐる対立は南北戦争と呼ばれる内戦へと発展し、100万人近い死者を出して1865年にようやく終結した。 1869年、大学生のフットボール試合で最初のチアが叫ばれたが、そのチアリングは南北戦争に参加した軍隊の影響を色濃く反映したものであった。
1800年代の日本はその7割が江戸時代であり、最初のチアの一年前にようやく明治時代になった。 江戸時代の日本は泰平の世であり、平和を謳歌していた。 しかしながら、1853年の黒船来航により状況は一変し、日本は海外からの侵略の危機に直面する。 これに対し、当時日本を支配していた徳川幕府は脆弱さを見せた。 日本の行く末を案じた幕末の志士達は、侵略に耐えうる日本を作る方法をめぐって、2つに分裂する。 徳川家を擁立する佐幕派と天皇を擁立する尊王派である。両者は砲火を交え、日本は内戦に突入した。 内戦は尊王派が勝利し、過去の徳川幕府を一新(維新)したのが1868年の明治維新であり、最初のチアの1年前の出来事である。
チアリーディングは1869年11月6日のプリンストン大学vsラトガーズ大学のフットボールの試合で始まり、 最初のチアリーダーは来場していた観客であった。 1800年代の日本は江戸末期から明治初期であり、まだちょんまげを付けた人達が歩いていた。明治維新が1968年である。 一方のアメリカは南北戦争で大揺れした時期であり、戦地から帰ってきた学生が軍隊で使用していたロコモティブ (戦場での誤認を防ぐために単語をスペルで発声する事。JAPANなら、ジェイ・エー・ピー・エー・エヌと発声する。) をスポーツの試合で披露し、それがこんにちのチアリーディングの始まりとなった。
1775年、アメリカ独立戦争の時代、アメリカにはすでに大学があった。 大学には、18歳から21歳のアメリカ人において、2%しかいないエリートの白人男性が通学していた*1。 エリート白人のルーツは、プロテスタント(キリスト教の一派)への迫害という、 宗教的理由によってイギリスから自由を求めて新大陸にやって来た移民である。 移民してきた人達は寛容な国を作ったが、147年後のアメリカの小学生は教室で「壁を作れ」と叫び、移民を攻撃した。 かつてローマで迫害されていたキリスト教が、国教となり権利を得た途端、迫害する側に回った歴史と同じである。
大学は学生を厳しく支配し、大学からの温和な独立として、学生は大学外でのスポーツ活動を行った。 大学から学生への支配は厳しく、かつての日本の学生運動のように、大学での暴動、教師への襲撃、建物への放火が行われた。 学生は学校からの独立の意思表示として、自治会を作り、学校の統制が及ばない外部でのスポーツ活動を行った。 クラス間や学校間のスポーツは人気を博し、多くの学生の興味を引く中、1852年8月3日にハーバード大学(マサチューセッツ州)と エール大学(コネチカット州)の最初の大学間スポーツ大会が開催された。 1859年1月1日には最初の大学間野球大会が開催され、アムハースト大学(マサチューセッツ州)がウイリアムズ大学(マサチューセッツ州)に 勝利した。
1869年11月6日、プリンストン大学とラトガース大学(ニュージャージー州)における、最初の大学間フットボール試合が実施された*2。 現代の(アメリカン)フットボールは両チーム合わせて22人であるが、当時は50人が同時にフィールドに立った。 また、ボールを投げたり、ボールを持って走ったり、相手の選手を転倒させたり、掴むこともできなかった。 選手は丸く膨らんだゴムボールをキックしたり叩いたりしながら、8フィート(2.43メートル)幅のゴールへ向かい、 最初に6得点を挙げたチームが勝った*3。 この試合は6対4でラトガース大学がプリンストン大学に勝利している*4。
この試合で披露されたチアリングが最初のチアリーディングである。 試合中、プリンストン大学の観客の一部がプリンストン・ロコモティブとして知られるロケットチアを披露した。 ロコモティブとは「推進」という意味であり、V-I-C-T-O-R-Yなどとスペルを叫ぶチアリングである。 観客のプリンストン大学生が叫んだチアは次のようなものであった。
Ray, Ray, Ray,タイガーの部分は後年になって付けられたのかもしれない。 というのも、トラがプリンストン大学のマスコットとなったのは、1880年代だからである*5。 スペルは最初ゆっくりとつづられ、繰り返しながら速度を上げていった*6。 大学名をエールとして最初に使用したこのチアリングが、最初のチアリーディング(応援牽引)である。
最初のチアリングは軍隊で使用していたスカイロケットチアを学生が拝借したものである。 スカイロケットチアとは、騒然とした戦場において、英単語をアルファベットに分解して発声する事により、正しく情報を伝える手段である。 例えば、「JAPAN(ジャパン)」と発声するよりも、「J-A-P-A-N(ジェイ、エー、ピー、エー、エヌ)」と発声した方が、 生死を分ける戦場で確実に情報が伝わる。 この手法を、プリンストン大学の学生達は、ニューヨーク市に駐屯する第七連隊の指揮官から提案された。 第七連隊は南北戦争勃発時にプリンストンを経由してワシントンへ向かった連隊であり、チアを叫んだ学生は駅で招集された学生であった*7。
チア(cheer)とは声援という意味でもあり、アメリカ陸軍だけでなくアメリカ海軍でも使われていた。 1842年のアメリカ海軍の水兵は、「着替え!」の命令で綺麗な軍服に着替え、 「登れ!」の命令でマストの先端とクロスツリー(マストの上部にある水平の丸太)へと登り、 「並べ!」の命令で猿のように走りながら索具の隙間に整列した。 そして、「チア!」の命令で帽子を脱いで手を振り、声を限りに叫んだのである。 この時のエールの回数は決められており、チアを三回送ったのならば、受け取った軍艦も三回返答しなければならなかった。 一回だけのチアが送られた場合、それ以上のチアは実施されず、マストから降りるよう命じられた*8。
大学スポーツは人気を得て、学校に在籍する学生数を超える観客を呼び込むようになった。 学生は自分達でスポーツリーグを編成し、そこに所属するチームを作り、ルールを整え、1870年代に試合興行も取り仕切った。 学生スポーツは自分が所属している大学の学生であるとのアイデンティティ(身分証明)を強め、明確にする事ができた。 それにより、現役学生だけでなく卒業した学生の関心を強め、引いては、社会全体からの関心も増加した。 この関心に大学はまだ気付いておらず、ガーデニングから音楽まで、様々な娯楽が掲載された大学のパンフレットにスポーツの紹介はない*9。 学校とは無関係に自分達で楽しむために開催していたスポーツは、やがて学生数を超える観客を呼び集めるようになった。
チアの始まりは1869年11月6日のプリンストン大学vsラトガーズ大学のフットボールの試合だった。 最初のチアリーダーは観客席にいた軍隊帰りの学生であり、学校名を「ピー・アール・アイ・シー・イー・ティー・オー・エヌ」と叫ぶ ロコモティブ・チアで応援した。 その後大学スポーツは人気を得て、学生数を超える観客が集まるようになった。
選手になれなかった男子大学生は、客席にいる選手として試合に参加し、自発的に応援をリードした。 この「応援をリードする人」を「チアリーダー」として大学が正式に任命するようになる。 任命は人気やカリスマ性に基づいており、チアリーダーは大学におけるリーダーシップのシンボルとなった。 やがて、大学による任命が選抜試験に代わり、チアリーダーは厳しい競争を勝ち抜いたエリートとして認識されようになる。 大学で厳しい競争を勝ち抜いたチアリーダーは、社会での厳しい競争も勝ち抜き、政治家や企業経営者といった知的職業での成功につながった。 また、観客の増加とスタジアムの拡大が一人のチアリーダーを複数のチアリーダーズとした。
試合に参加できる男子大学生の数は限られており、参加できなかった学生は、チームの勝利に貢献すべく客席で自発的に応援をリードした。 大学間試合は学生のアイデンティティを高め、スクールスピリットを強めた。 しかしながら、全ての学生が選手として試合に参加できるはずもなく、そういった学生は自発的にアウェイ試合に赴き、 客席にいる選手としてスクールスピリットを見せた。初期のチアリーダーは非公式かつ散発的だったのだ。 観客席から飛び出したチアリーダーは仲間の学生がエールを送るよう煽りたて、時には、選手が怪我をした時に交代して試合に出場した*10。
自発的なチアリングは、スタジアムの拡大と共に実施が難しくなってきた。 初期のチアリーダーが活躍したフィールドは本当にただの原っぱであり、客席はわずか、あるいは、全く無かった。 観客はプレイングフィールドの近くで立ち見で観戦していた。 観客数の増加に伴いスタジアムが建設され、徐々に大きくなっていくが、それに伴い観客はプレイングフィールドから離された。 選手との距離が離れ客数が増えると、自然発生的なバラバラのチアリングを実施する事は難しくなった。
自発的でバラバラだったチアリングは、フットボール人気の高まりと並行して、観客全体による組織的なチアリングとなった。
フットボールとは、チアリーディングと同様に、アメリカを体現するスポーツである。 1905年、ラルフ・ペインがイギリスから伝わった「太古の娯楽」であったラグビーをより精巧に改良し、アメリカンスタイルのフットボールを完成させた*11。 フットボールの特徴はクォーターバックによるリーダーシップにある。 アメリカのように教育格差の激しい国において、割り算もできない人達を成功に導くための、エリートによるリーダーシップは特に重視される。 このリーダーシップこそアメリカの本質であり、この国を男というレンズで見るとフットボールになり、 女というレンズで見るとチアリーダーとなるのだ。
フットボールに観客が集まって制度化され、その勝ち負けが重要になってきた。 ラルフが作ったフットボールに、オープン戦、パッドと鎧のユニフォーム、タックル練習用のダミー人形、トレーニング日程が 導入され、コーチ、トレーナー等のスタッフが現れた*12。 フットボールがこのように制度化された理由は、1900年代に入ってからフットボールの人気が高まり、勝ち負けが重要になったからである。 ラルフは次のように書いている。 「熱狂する30,000人の観客に先立つ勝利の報酬、優勝の栄誉、詰めかける新聞記者、勝利を渇望するコーチとプレイヤーの増加。*13」
勝利を渇望するチームのために、観客全体による、組織的チアリングが実施されるようになった。 1800年代後期から1900年代前期にかけて、自発的なチアリーダーが客席の前に立ち、チームを勝たせるため観客に応援するよう促した。 1905年に撮影された「アメリカンチャンピオンシップゲームにおける応援団とそのリーダー。*14」と説明が書かれた写真には、 他の観客と同じようなスーツを着てシルクハットをかぶり、グラウンドに立ってプレイングフィールドに背を向け、 腕を振って観客に応援を促す自発的チアリーダーの姿が残されている。
1890年代になると、組織的チアリングを実施して、「ルーターキング」「エールリーダー」「エールキング」「エールマスター」 「エールマーシャル」と呼ばれていた人を、大学が正式に「チアリーダー」として正式に任命するようになった。 チアリーダーとして最初に任命された一人がミネソタ大学(ミネソタ州)のジョニー・キャンベルである*15。 キャンベルは同大学の卒業生であり、フットボールでのチアリーディングを40年間続けた*16。 また、大学に任命された多くのチアリーダーは、野球部や陸上部といった、同じ大学における他のスポーツのキャプテンであった*17。 さらに、南カリフォルニア大学(カリフォルニア州)のチアリーダーは大学教授であった*18。
大学がチアリーダーを正式に任命する一方、そのスクールスピリットの表現方法を懸念している人もいた。 というのも、「病院送りにするぞ」と叫んだり、フィールドに石を投げ入れるチアリーディングが存在したからである。 1911年の「ザ・ネイション」誌において、ハーバード大学学長のA.ローレンス・ローウェルはチアリングを 「大学の神聖な伝統を嘲笑する大胆さ」とからかった。 また、音楽教師の会議で「組織化された集団でのチアリングは最悪だ。あれは偽物の感動だ。」と批判された時は、 「これまでに発案された中で最悪の感情表現手段である。」と言った*19。
しかしながら、人気やカリスマ性に基づいた任命により、チアリーダーは大学におけるリーダーシップのシンボルとなった。 チアリーダーは、抜きん出て優秀であり、人気、個性、リーダーシップ、カリスマ性を持ち、なおかつ、外見の良いソロパフォーマーが選ばれた。 この特徴はフットボールのクォーターバックの特徴と同じである。 クォーターバックはリーダーシップのシンボルであり、チアリーダーもまた同列視され、リーダーシップのシンボルとなった。 「ザ・ネイション」誌は次のように書く。「勇ましい『チア・リーダー』という評判は、少年が大学で獲得しうる、最も価値あるものである。その価値は、プロモーションのプロとしての肩書、あるいは、公人の活動として、クォーターバックに匹敵すると言っても過言ではないであろう。*20」
1800年代後期になると、大学はスポーツをカリキュラム(教育課程)の一つとした*21。 それにより、指導力向上のためのプロコーチの雇用、リーグの確立、試合日程の決定、奨学金の支払い、 マーチングバンド活動の管理や監督が実施された。 カリキュラム化は大学での暴れ者を抑制し、寄付金を増額させる結果となった。 大学での暴動や教師への襲撃といった振る舞いは、学生がスポーツで汗を流すことによって改められた。 また、フットボールチームは「壮大なパフォーマンスと献身を目的とした栄光あるチーム」となり、 「卒業生が学校への忠誠心を(寄付金として)見せる要素」となった*22。
1900年代になると、大規模なスポーツ大会やそこでの組織的チアリングは珍しくなくなってきた。 1915年、スポーツの競技性が高まるにつれて、ウイリアム・T.フォスターといった教育者達から、大学代表チームとそこに大学が支払う費用について批判が起こった。 「大学内スポーツは『みんなのためのスポーツ』だが、大学代表チームのスポーツは『ビジネスのためのスポーツ』である。 ... トレーナー代、コーチ代、横断幕作成費用 ... トレーニング日程表作成費用、運賃 ... ユニフォーム代 ... 宣伝費、大きな客席、ブラスバンド、大規模スポーツ大会。*23」 批判もあったものの、一流大学による大規模スポーツ大会やそこでのチアリングは、もはや珍しい光景ではなくなった。
大規模スポーツ大会や組織的チアリングにより、1800年代の暴れ者の集いは、1900年代にはスポーツと社会性の追求へと進化した。 1800年代には暴れ者の男子大学生の血気を発散させる目的で実施されていた乱闘が、ルールが整えられ、対戦環境が整えられ、 チアリングで観客が組織化され、大規模な大会が開催される事によって、社会における公(おおやけ)なスポーツとなった。 大学代表スポーツチームは大学そのものであり、そこに関係する大学生もまた、大学を代表する人間であると認められるようになった。 これはサッカー日本代表チームが日本そのものであり、国が代表を全力で応援し、そこへの参加者も日本そのものである事と同じである。
社会に対して大学を代表するチアリーダーは選抜試験で選ばれるようになり、厳しい競争に打ち勝った証として、一流大学生のステータスとなった。 大学に任命されていたチアリーダーを学生が選ぶようになる。 チアリーダーは、学部の委員会、体育学部、学生全員により、タンブリングスキルと外向性によって選ばれた。 1920年代になると、実践形式の準備講習会とトライアウト(選抜試験)が実施されるようになった。 社会に認められ、一流となったスポーツ大会において、非公式かつ自発的なチアリーダーはふさわしくなくなったのだ。 代表を選ぶ厳しい選抜試験に合格し、競争に打ち勝ったチアリーダーは、一流大学生のステータスとなった。
大学で厳しい競争を勝ち抜いたチアリーダーは、社会での厳しい競争も勝ち抜き、政治家や企業経営者といった知的職業での成功につながった。
政治家となった元チアリーダーとして、ニューヨーク州陸軍士官学校出身のドワイト・D.アイゼンハワー(第34代米国大統領)がいる。 アイゼンハワーは将軍として第二次世界大戦での連合国を勝利に導き、その後共和党から大統領選挙に出馬して当選した。 アイゼンハワーの陸軍士官学校でのチアリーダーとしてのキャリアが軍隊のリーダーとして活かされ、さらには、 アメリカのリーダーとしても活かされた形となる。
軍人を養成する大学であってもチアリーディングは実施されている。 日本には防衛大学が一つしかないが、アメリカには軍人を養成する大学がいくつも存在する。例えばテキサスA&M大学もその一つである。 テキサスA&M大学は、全員男性、全員軍人の機関として設立され、全員男子学生の伝統は1972年まで続いた。 また、テキサス州で最も早くチアリーダーを取り入れた大学でもある。 チアリーダーは、女子学生が入学した以降も男子の新人士官候補生が担当した。 2001年に男女混合チアスクアッドが設立されたが、このスクアッドは非公認扱いであり、反発も激しかった*24。
バージニア州立軍事学校での女子チアリーダーもブーイングを受けた。 同大学のチアリーダーズは、近所に存在するメアリー・ボールドウィン大学と南バージニア大学から選ばれてきた。 しかしながら、1997年にバージニア州立軍事学校が男女共学になった時、女子大学生のチアリーダーが誕生した。 女子学生のチアリーダーは、ショートヘアが「チアリーダーに見えない。」と、男子学生からブーイングを受けた。 また、チアスクアッドに女性が混ざると、過度の性的緊張を引き起こすと述べた人もいた*25。
軍隊だけでなく、民間の企業経営においてもチアリーダーの経験は有利に働いた。 チアリーダーが企業の指導者的役割において有利になる理由は、リーダーシップ、キャリアパス、コネの構築の三つである。 リーダーシップはチアリーディングの原義的能力である。観客のリードによりチームを勝利を導く能力と、 社員のリードにより会社を成功に導く能力は、本質的に同じである。 キャリアパスは、高校と大学入試、あるいは、会社の入社試験において、チアは履歴書に書く事ができる経験となっている*26。 コネは、チアリーダー達がエリートであり、そこでのつながりをその後の企業経営に活かす事である。
1920年代になると、チアリングとアクロバットの両方を実施する、複数の人間によるチアリーダーズが現れた。 この時代、アメリカでは大量輸送機関、大量の印刷物、ラジオによる大量の情報により、人々に余暇時間ができるようになった。 空いた時間、人々はスポーツの会場に足を運び、試合観戦者は数百人から数千人へと増加した。 観客が増加しスタジアムが拡大すると、たった一人のチアリーダーを見つける事は困難になる。 それゆえ、1924年にプリンストン大学とエール大学の両方が三人の男性チアリーダーズを擁立した。 1927年、この動きにベイラー大学(テキサス州)も追随して、アメリカ全土の大学に広がっていく*27。 ここに、一人のチアリーダー(単数形)は、多数のチアリーダーズ(複数形)となった。
選手になる事ができず、客席での試合観戦に甘んじていた男子大学生が、スクールスピリットを見せるために自発的に応援をリードした。 自発的応援は入場者の増加と共に観客を一つにまとめる組織的チアリングに進化する。 チアリングを組織し、応援をリードする人を「チアリーダー」として大学が正式に任命するようになった。 やがて任命が選抜試験に代わり、厳しい競争を勝ち抜いたチアリーダーは大学のエリートとして認識されるようになる。 大学での厳しい競争を勝ち抜いたチアリーダーは、社会での厳しい競争も勝ち抜き、政治家や企業経営者といった知的職業での成功につながった。 その後入場者がさらに増加し、スタジアムもより大きく拡大されたため、一人のチアリーダー(単数形)が、多数のチアリーダーズ(複数形)となった。
女子大学生のチアリーダーズは1923年にトリニティ大学サンアントニオ校で誕生したと考えられる。 女性チアリーダーは男子大学生の抵抗を受けて排除されていたが、州立大学と公立大学の増加によって女子大学生の数が増え、 女性チアもスポーツ大会に参加できるようになった。 男性チアリーダーのステータスは、美しい女性チアリーダーと組む事によってさらに高まり、また、女性チアリーダーのステータスも 人気者の男子大学生と組む事によって高まった。 女性チアリーダーは大衆エンターテインメントにおける女性の強調と共に拡大し、第二次世界大戦が女性のチャンスを増大させた。 戦争が終了した後の1950年代、ソングリーディングのダンスとドリルチームの息を合わせ動きがチアリーディングに影響を与え、現代的チアリーディングが完成した。
女子大学生のチアリーダーズは、恐らく、1923年のトリニティ大学サンアントニオ校で誕生した。 最初の女子大学生チアリーダーがいつ誕生したのかは不明であるが、その場所は、恐らくトリニティ大学サンアントニオ校(テキサス州)である。 1923年の同大学には男女各15人のペップ(元気)スクアッドが所属していた。 1925年は、1人の男性チアリーダー、1人の男性アシスタントチアリーダーを含む、男性12人女性22人だった。 1929年は、1人の男性チアリーダー、2人の女性と1人の男性のアシスタントチアリーダーを含む、男性29人女性28人だった。 この大規模なスクアッドは1936年まで継続し、3人のチアリーダーズが主役を務め、1人の女性と2人の男性アシスタントがいた*28。
1930年代になるとスクアッドは少数かつ運動的に変化し、サイドラインで女性がリーダーとなってパフォーマンスを披露するようになった。 1920年代のトリニティ大学サンアントニオ校のイヤーブックには、試合会場を行進する同大学のペップスクアッドの写真が残されている。 また、パレードの写真では合唱団のようなフォーメーションでポーズをとっている。 これらの写真のスクアッドは数十人規模かつ静的であったが、1930年代になると、人数は少なくなり、かつ、運動的となる。 1930年代のスクアッドは、女性がスクアッドのリーダーとなり、ひざまずいたり、ジャンプしたり、メガホンを使用した応援を、 サイドライン上で実施するようになった。
女性チアリーダーは、当初、男性大学生の抵抗を受けた。 1939年、タイム誌が男子大学生チアリーダーの社交クラブである「ガンマ・シグマ」を取材し、次のように書いた。 「南部の大学(特にアラバマ大学(アラバマ州)とテネシー大学(テネシー州))における最も多才なチアリーダーズの何人かは、 『ディンプル・ニード・コ・エド(dimple-kneed co-eds、えくぼ・ひざ・男女混合チーム)』に所属しているが、 女子達はオールアメリカ・スクアッドとして適格ではなかった。*29」 女性は「ガンマ・シグマ」とスポーツ記者が選出した、オールアメリカ・セブン(同時代における最も大きな大学生スクアッド)の チアリーダーからも締め出されていた。
社交クラブとは日本の大学での学生寮に相当するものであり、卒業後に利用できるコネを作る役割もある。 アメリカの大学における社交クラブは食事クラブとも呼ばれるものであり、学生が寝泊まりしたり食事を行う、いわゆる学生寮である。 日本の学生寮は単なるマンションであったりするが、アメリカの社交クラブは学生自治が明確な京大吉田寮のような存在であり、 加入するためには歓迎会と称した面接が必要となる。 アメリカの各社交クラブにはエリート向けからどんちゃん騒ぎ向けまで様々な特色があり、学生同士で根回ししたり、将来のコネを作る事も可能である*30。
女性チアはスポーツ大会から排除されていたが、女子大学生の数の増加によって、女性チアも参加できるようになった。 当初スポーツ大会に女性は参加できなかった。 というのも、男性がほとんどを占める私立大学と男子大学でスポーツ大会を開催し、なおかつ、女性がトラブルを起こすと考えられていたからである*31。 しかしながら、男女共学である州立大学と公立大学が増加するに連れて女子大学生の数が増加し、大規模スポーツ大会にも姿を見せるようになった。 アイオワ大学(アイオワ州)は1855年に女性の参加を認め、ウィスコンシン大学(ウィスコンシン州)は1867年、カンザス大学(カンザス州)、 インディアナ大学(インディアナ州)、ミネソタ大学は1869年、 ミズーリ大学(ミズーリ州)、ミシガン大学(ミシガン州)、カリフォルニア大学(カリフォルニア州)は1870年に女性の参加を認めた*32。
スポーツ大会に出場した女性チアリーダーは、人気者の男性チアリーダーと組む事によって、新しいステータス(名声)を獲得した。 また、男性チアリーダーのステータスも人目を引く女性チアリーダーと組む事によって高まった。 1920年代になると女子大学生は珍しくなくなり(47%が女性*33)、女子大学生向け社交クラブも設立された*34。 男子大学生向け社交クラブは「1890年代における大学生活の華」であり、1920年代は「大学生活の中心」であった*35。 両者は新しいステータスを欲しており、チアリーダーズがそれにちょうど合致した。 1920年代に起こったこの出来事は、キャンパスが進化した結果であった。
ステータスの獲得に加え、大衆エンターテインメントへの女性の進出が男性の仕事だったチアリーダーを女性の仕事としても確立させた。 1920年代になると、アメリカ社会で女性の性的アピールが容認されるようになった。 というのも、ミス・アメリカ(アメリカの代表的美人コンテスト)や映画といった大衆エンターテインメント、ならびに、広告において女性が強調されたからである。 広告ではメアリー・ピックフォードのような女性映画スターが、大勢の観客の前でパフォーマンスを披露する女性チアリーダーズのイメージを広めた*36。 こういった、社会における性的アピールの容認は、大学生フットボールのフィールドへも簡単に拡大し、女性の進出が進んだ。 1927年に出版されたチアの本には「男」「仲間」という言葉で埋め尽くされていたが*37、1930年代になると男性の独占は崩れ始め、 1940年代には、男女混合、全員男性、全員女性の大学生チアスクアッドとなった*38。
第二次世界大戦は女性がチアリーダーになるチャンスを増加させた。 第二次世界大戦とは1939年のドイツのポーランド侵攻に端を発した世界規模の戦争である。 アメリカは1941年の日本による真珠湾攻撃を機に戦争に参加した。 戦争には多くの男達が駆りだされた。この時代、そういった男達の仕事の一部が女性に回ってきた。 日本においても郵便配達や路面電車の運転手といった仕事を女性が担当している。 アメリカでも男性チアリーダーズが兵士として戦場に向かい、残った女性が代わりにチアリーダーズを担当した*39。
戦場から戻ってきた男性はチアリーダーズを取り戻そうとした。 戦争が終わり、男達が戦場から戻ってきた。 戻ってきた男達は、当然の事ながら戦前の自分の仕事を取り戻そうとし、チアリーダーズもその例外ではなかった。 1950年代になると、いくつかの大学(テネシー大学等)や高校が、実際に女性を追い出し始めた。 レッドウッドシティ(カリフォルニア州)のユニオン高校の学生協議会は、4つの論点を持って女子のチアリーダーズを追放する決定を下した。 その論点とは、1.女子の声はあまりも甲高い。2.女子にはスポーツの複雑さを理解してチアーズを導く能力がない。3.女子は乱暴な観客を制御できない。4.男子は自身がチアリーダーズに戻る事を求めている、というものであった。*40。
1940代になるとチアリーダーズの多くが女性となり、ソングリーディングやドリルチームといった別の女性グループも現れた。 1940年代になると、30,000以上の大学と高校にチアリーダーズが存在し、その多くは女性となった*41。 1927年のチアリーディング本は男性向けであったが、1945年と1948年に出版されたチアリーディング本には女性の写真も含まれていた*42。 また1941年のライフ誌は次のように書く。「観客席の前に立つ女子のチアリーダーは、前例のない声援エネルギーを呼び起こす能力を持ち合わせている。*43」 スタジアムでの応援の女性化はチアリーダーズにとどまらず、ソングリーディングやドリルチームという、別の形態で応援する女性グループを拡大させた。
ソングリーディングとはダンスを基礎とした女性のみの応援グループである。 ソングリーディングの初登場は1929年のカリフォルニア大学ロサンゼルス校のフットボールの試合である。 この時のソングリーディングはブラスバンドと共に歌を歌って手を振っていた*44。 ソングリーディングは全員女性であり、歌う歌はスクールソングである。 ソングリーダーズは歌を歌いながらパフォーマンスを実施し、試合の中断時間に特別なルーティーンを披露して 学生にエンターテインメントを提供した*45。 1950年代になるとソングリーディングはダンスルーティーンを採用し、最終的に歌う事を完全にやめた。
ドリルチームとは正確性と反復性を視覚的アピールの基礎とした女性のみの応援グループである。 ドリルチームもまたポンポンとミニスカートを着用しており、一見するとチアリーダーズとの違いはないように見える。 しかしながら、ドリルチームには正確性と反復性という大きな特徴がある。 ドリルチームは「正確な行進とターン」「同時に向く」「ある集合から別のフォーメーションへのトリッキーな変移」が、 息を合わせた全員でのパフォーマンスとして見られなければならない*46。 ドリルチームはフォーメーションチェンジのためにサイドラインよりも広いスペースを必要とし、試合中のパフォーマンス披露はない。
最初のドリルチームは短いスカートでのハイキックが話題になった。 1940年のキルゴア大学(テキサス州)レンジャレッツが最初のドリルチームである。 レンジャレッツは高校のマーチングドリルバンドを指導していたグッシー・ネール・デイビスによって発案された。 当時の学長はキリスト教プロテスタントのバプテスト派であり、フットボール試合中の禁酒を求め、 ハーフタイム中に男達が酒を買いに行かないようショーで席に釘付けにするようデイビスに命じた*47。 一案したデイビスは1940年の最初のショーでレンジャレッツに短いスカートをはかせて、ハイキックをさせた。 このハイキックはすぐに話題になり、テキサス中の高校や大学が模倣する事となった。
1950年代になると、ソングリーディングとドリルチームがチアリーディングに影響を与え、現代的チアリーディングが完成した。 1940年代のチアリーディングとは体操を用いた女子のスポーツ応援活動である。 しかしながら、1950年代にチアリーディングはソングリーディングとドリルチームの影響を強く受けた*48。 ソングリーディングは1950年代に歌をやめダンスに特化しており、チアリーディングもダンスを披露するようになった。 またドリルチームのフォーメーションを取り入れ、「正確」「同時」「全員」を強調するために、メイクや髪型が統一された。 元々の体操にダンスとフォーメーションが加わり、現代的チアリーディングが完成した。
女子大学生のチアリーダーズは1923年にトリニティ大学サンアントニオ校で誕生したと考えられる。 女性チアリーダーは男子大学生の抵抗を受けたが、その数は女子大学生の数と比例して増加した。 また、1920年代の大衆エンターテインメントにおける女性の強調や第二次世界大戦での男子大学生の減少が追い風となり、 女性チアリーダーの数はさらに増えた。 戦争後の1950年代、ソングリーディングからダンス、ドリルチームから息を合わせた動きを取り込み、現代的チアリーディングが完成した。
高校でも大学を模倣してチアリーダーズが誕生した。 1930年代までは高生生女子のチアリーダーは珍しかったが、1940年代になると男女混合が男性だけのスクアッドと同じ数になった。 1950年代になると女子の割合が増加し、チアリーディングは中学校と小学校にも拡大した。 1975年になるとチアリーダーズの95%が女性となり、1980年代には大学を除いてチアリーディングは完全に女性のものとなった。
高校は大学のための準備機関から社会に出るための機関に変化し、その手法として、スポーツを強く推奨した。 1800年代、アメリカにおける高校への進学率は低かった。 というのも、高校はエリートを養成する大学に入学するための準備機関だったからである。 その後、1900年代になって労働に関する法律が改正され、労働を許可する年齢が引き上がられた。 これにより中学校への通学が強制され、また、高校世代の60%が高校に通学するようになった*49。 大衆の多くが通学するようになると、高校は大学への準備機関という性質から就職を準備する機関という性質に変化し、 現実的な社会性を身につけるためにスポーツが強く推奨された。
高校スポーツも大学と同じような発展を遂げた。 社会的価値を見出されたスポーツは高校でも推奨され、大学生と同じように、高校生も自分達でスポーツリーグを設立し、試合をスケジューリングし、臨時コーチを雇用した。 1890年代になると大きな高校におけるフットボール人気は大学をも超越した*50。 また、1900年からは20年間をかけて公式戦を実施するスポーツ組織を州全体に整備した*51。 大学でもそうであったように、高校においてもスポーツとそれに関連する活動がカリキュラムとして採用された。
高校生のスポーツへの関心が不足している場合、大人が干渉してでもスポーツへ関与させた。 1916年、リンカーン高校(カリフォルニア州)の校長に就任したエスル・パーシー・アンドラスは、同校がスポーツ大会で最下位になり、 フットボールの観客数が1,200人の全校生徒に対して20人しかいない事を知った。 エスルは朝礼を開いてフットボールのルールと戦略を選手に説明させ、スポーツの応援を教えた。 この教育は「黒板が優先、その次にメガホンを持ってフィールドへ。」をスローガンとし、1917年の「全米教育組織活動ならびに講演」誌は 次のように書いた。 「我々の最初の試合において、リンカーン高校のほとんどの生徒が屋根なし観覧席で力強く応援していた。応援は得点とチームを結びつけて実施されているように見えた。*52」
スポーツだけでなく、高校はスポーツの関連活動も真似る事になり、高校生チアリーダーズが誕生した。 高校におけるスポーツの拡大と共に、エールリーダー、チアリーダーズ、マーチングバンド、応援部門といった、スポーツの関連活動も拡大した。 また、大学における女性のスポーツへの参加は抵抗を受けたが、公立高校は女性のスポーツを後援し、チアリーダーズも同様のサポートを受けた。 高校生チアリーダーズが登場した正確な年月日は不明であるが、1924年のリテラリー・ダイジェスト誌がオハイオ大学フットボールコーチの 見聞として次のように書いている。 「オハイオ州の高校では女子のチアリーダーズが大人気である。私が見た所によると、それら半ダースの女子達は男子達よりも上手に高校生の観客をコントロールしていた。 ... 女子達は少年達よりも良いリズム感を持ち、時々見せるアクションの激しさによって華麗に見えた。*53」
1920年代の高校チアリングは大学を模倣しており、女子は男子チアリーダーとよく似た衣装や動作であった。 当時の女性チアリーダーズは、胸の部分に「M」と描かれた厚手のセーターのユニフォームを着ており、 羊毛でできたくるぶしの長さまでのプリーツスカートをはき、白いオックスフォード靴をはいていた*54。 この衣装は、スカートを除いて、当時の一般的な大学生男性チアリーダーズとほとんど同じである。 大学では、男性が淡色のセーター、女性が濃色のセーターと、色を分ける場合もあった。 白黒写真で色の判別が難しいのだが、高校でも男女で色分けをしていた可能性がある*55。 このような衣装を着て、女性チアリーダーズがジャンプのアクションを見せる様子がリテラリー・ダイジェスト誌に残されている*56。
1930年代になると女性のチアリングは他の女性から一流であると考えられるようになった。 1934年に発売された「チアリーダー」というティーン向け小説には、次のような一文により、一流としてのチアリーダーへの憧れが描かれている。 「誉れ高き女子高生にふさわしい、多くの人が羨望するチアリーダーになりたい。*57」 こういったチアリーダーへの憧れは、近年においても、主に子供向けの本としてアメリカで発売されている。 大人向けのチアリーダー本は多様であり、技術書、小説、研究書などがあるが、そのほとんどは成人男性向けの性的な本である。
女性チアが一流であると考えられた一方、「ガラガラ声のお嬢さん」への懸念もあった。 「ガラガラ声のお嬢さん」とは、応援のための男性的な声を持たず、スタンツのための運動能力も持たない女性チアリーダーである*58。 そういった女性チアが男性チアとの関係を通じて、粗野で乱暴になり、思い上がった女性になるかもしれない、という心配があった。 これに対し、教育者のジョン・ガッチは、声も枯れず観客もイライラさせない声の出し方、ならびに、単純なアクロバットスタンツを教え、 三つの理由により女性の方が男性よりもチアに向いていると主張した*59。 その主張とは、リズミカル、人を惹きつける外見、女性の能力や権利の向上であり、その後の女性中心チアを予見するものであった。
高校チアリングは大学チアリングを形式的に模倣したが、その内容は生徒の社会性と人格の形成を目的とするものになった。 大学のチアリングは、選手への応援を引き出す事から始まり、エンターテインメントと華麗さを付与した、大学スポーツでの見世物へと発展した。 一方、高校でのチアリングは社会性や人格形成を重視するものとなった。 例えば、1937年のペプノクラッツ・オブ・コナーズビル高校(インディアナ州)は、試合中のブーイングや紙くずの投げ入れを憂慮し、 「生徒と良き社会における、善良なスポーツマンシップ*60」のために150人のチア部門設立して、 「我々はブーイングをしません。あなたはどうですか?」というスローガンを採用した。 さらに「生徒によるスポーツマンらしくない行為*61」を裁定する機関を設けた。 高校において生徒の社会性と人格を形成する目的によりスポーツのような課外活動が正式な教育となり、あるいは、規律のための道具となった。
1940年代になると、女性のチアリーダーズが受け入れられ、男女混合スクアッドが男性だけのスクアッドと同じ数になった。 1941年のライフ誌はホワイティング高校(インディアナ州)の三人の高校三年生チアリーダーズについて次のように書いた。 「大衆心理を知っているのならば、チアリーディングにおける繊細な技術に関して、女子が男子よりも優位である事実は明らかである。*62」 ここでの大衆心理とは女性への性的な視線である。同誌の写真には女性チアのジャンプ、キック、ジャズを踊る様子が掲載されており、 キャプションには次のように書かれていた。 「もし女子が何らかの失敗をした場合、正面の特別観覧席にいる観客は、フィールドで戦っているホワイティング高校の選手よりも女子を見る。*63」
女性チアリーダーズは受け入れられたが、スタンツに関しては女性の参加が心配された。 1944年のロレンス・ブリングスによる高校生向け応援マニュアルには、イースタン高校(ペンシルベニア州)の教諭による次のような 記事が掲載されている。「側転、前転後転、フリップ、 ... ダイビングといったアクションの全てを我々は今や実施可能である。今後さらに女子を前面に押し出す傾向となるであろう。*64」 この一文は女性は基本的なスタンツは可能であるものの、より上位のスタンツは難しいという主張を暗示している。 また、1945年のニュート・ローケンのチアマニュアルにも性差を見る事ができる。 そのマニュアルに掲載された男性はアクロバットを解説する連続写真で使用されているが、女性は試合中に撮影されたリラックスした写真である*65。
1940年代に多くの女子高生がチアリーダーになり、1950年代にはチアリーダーズの女性化が見られるようになった。 1940年代になるとエンターテインメントにおける女性の価値が重視され、女性チアが増えた。 女性チアの増加により全米30,000以上の大学と高校で女子を含むチアリーダーズを所有するようになる*66。 1950年代、チアリーダーズに精密化という変化が起こった。精密化とはルーティーンのキメの細かさである*67。 そういった繊細なチアを数が増えた女性が担当し、チアの女性化が発生した。 男性チアはその割合を減らし、バージニア・ニールスは「男子は多くの場合自分に適した運動プログラムを見つけ、チアリングは女性の仕事として残りそうである。」と記した*68。
1950年代になるとチアリーディングは中学校と小学校にも拡大し、主に女性の役割として認識されるようになった。 1958年にハロルド・ハインフェルドがユニオン(ニュージャージー州)の中学生スクアッドを紹介した。 同スクアッドは小学生男子の試合をサポートしたが、1953年の時点において、それらの小学校にもチアリーダーズが存在していた。 また、記事では中学二年生と三年生のチアリーダーズを「代表チーム」、中学一年生チアリーダーズを「ジュニア代表チーム」として紹介している*69。 大学で権威を誇っていた代表チームが中学校でも確立されていた。 さらに、複数の中学校教諭が「男子はスポーツで女子はチアリーディング(ならびに裁縫)が性的に適切な活動」であると定義し、チアリーディングは女性の役割となった*70。
1950年代、力と運動スキルが向上したチアリーディングが分離し、競技チアとなった。 この時代、ローレンス・ハーキマーがナショナル・チアリーダーズ・アソシエーション(チア団体の一種)を設立し、 チアリーディングクリニックやチアキャンプを実施して、「ザ・メガホン」誌を季刊で発行した*71。 こういったワークショップや出版物は、チアリングスタイル、テクニック、パフォーマンス内容に関して、チアリーダーやコーチに影響を与えた。 さらに、ローレンス・ハーキマーから独立したジェフ・ウェッブがチアリーディングを運動的内容に転換し、かつ、エンターテインメント性を付与した。 力と運動スキルが必要となったチアリーディングは分離し、チアリーディング競技試合が実施されるようになる。 サイドラインから運動的スペクタクルに変化したチアは1981年に全米大会が開催され、1983年にその様子がESPNで全世界に放送された*72。
1970年代になると男性のチアリーダーズはほとんど消滅し、チアリーダーズの95%が女性になった。 1975年のランディ・ネイルは次のように書いた。「500,000人以上の小学生から大学生がチアリーダーズ活動を実施している。」 「アメリカにおける95%のチアリーダーズは女性になった。」 「ここ数年において男性のチアリーダーズはほとんど消滅し、数千の高校が男子生徒にチアリーディングのトライアウトを 受験するよう奨励している」*73。 さらに、1978年のチャールズとロバート・ハットンは次のように書いた。 「高校のチアリーディングは高品質な女性らしさを持った女子によってほとんどが占められており ... スポーツが得意な男子はチアにおいて本物の財産となるであろう。*74」
1980年代には大学を除いてチアは完全に女性の仕事になった。 小学校、中学校、高校のチアリーダーズは完全に女性の仕事となり、大学だけわずかに男性チアリーダーズが生き残った。 大学だけ生き残った理由は、チアリーディングが男子大学生から始まったという伝統があるからだと考える。 ただ、生き残った男性チアリーダーズも、男女混合チアリーダーズの一部としてであり、男性のみのチアスクアッドはほとんどない。 日本には男性のみのチアスクアッドが存在するが、ショー的要素が強く、政治家や企業経営者を目指している一団とは明らかに異なる*75。 1869年、一人の選手の叫びから始まったチアは最初男性の役割であったが、110年の月日を経て、女性の役割へと完全に姿を変えた。
高校スポーツも大学と同じような発展を遂げ、同じようにチアリーダーズも誕生した。 大学でのチアリーディングは選手の応援からエンターテインメントへと進化したが、高校のチアリーディングは、 社会性の構築や人格の形成といった教育の一環となった。 男女の高校生チアリーダーズはよく似た外観であったが、やがて女性のチアリーダーが一流と考えられ、 多くの女子高生がチアリーダーになった。 女性化したチアリーディングは中学校と小学校にも広がり、運動的側面が抽出されたものが競技チアとなった。 誕生から110年の時を経て男性チアはほぼ消滅し、チアは女性の仕事となった。
その他の応援部門として、マスコットとフラッシュカードについて説明する。 マスコット、フラッシュカード、チアリーディング、ソングリーディング、ドリルチームは スピリットグループと呼ばれる応援部門にグループ分けされる。 (ドリルチームに関してはプロフェッショナルチアリーダーズの章にて説明する。) マスコットは着ぐるみを着てピエロの役割を実施するパフォーマーであり、アメリカではプロも珍しくない。 フラッシュカードはジャケットを着たり脱いだりして人文字を作る応援部門である。
マスコットとは着ぐるみを着てピエロの仕事をするパフォーマーであり、チアリーダーズ同様、専門化されている。 マスコットの起源は不明であるが、1940年代に発行された冊子の写真にはライオンの着ぐるみが写っている。 日本とアメリカではマスコット事情が多少異なる。 日本のマスコットには多くの場合固有の名前があるが、アメリカでは中の人によって名前が違う場合がある。 また、トライアウトがあったり、中の人がプロであったり、中の人が公言され名誉になっている大学もある。 大学のマスコットは暴力事件に巻き込まれたり、チアキャンプのようなマスコットキャンプにも参加する。 多数のマスコットが参加する陸上競技大会では、マスコットの足を外し、スニーカーをむき出しにしての真剣勝負が繰り広げられる。
マスコットとは着ぐるみを着てピエロの仕事をするチアリーダーである。 マスコットはチアリーディングの幅を広げる教養的存在であり、マスコットによってチアがより味わい深いものとなる。 そんなマスコットの仕事は、パフォーマンスとグリーティングの二つに大別される。 パフォーマンスとは、チアリーディングにコミカルな要素を付与するダンサー的な役割である。 グリーティングとは、チアリーディングや試合に興味を示さない、主にキッズへのエンターテインメントの提供である。 パフォーマンスとグリーティングの役割とはサーカスにおけるピエロの役割であり、これもまたチアリーダーズの役割である。
マスコットは1940年代から始まり、1960年代に一般化した、チアリーディングの伝統である。 マスコットの起源は不明であるが、ロレンス・ブリングスが発行したチアマニュアルの「スクール・エールズ」には ペンシルベニア州立大学の着ぐるみである「ニッタニー・ライオン」の写真が掲載されている*76。 また、カリフォルニア大学バークレー校のクマの着ぐるみである「オスキー」が 「張り子のクマの頭、詰めものをした黄色いセーター、青いパンツに身を包んだ学生によって、ハーフタイムの余興でよく真似されていた。*77」 とニュート・ローケンは書いている。 20年後の1960年代になると、着ぐるみは、大学、高校、中学、プロにおいてよく見られるようになった*78。
日本のマスコットの場合ほぼ全てに名前が付いているが、アメリカのマスコットには名前がないものもある。 日本の場合、例えばトラのマスコットならば、「トラ太郎」といった固有名詞が通常付けられている。 しかしながら、アメリカの場合、トラのマスコットならば「タイガー」といった普通名詞しかない場合もある。 普通名詞しかないので、キッズがマスコットに呼びかける場合も「タイガー」である。 そういったマスコットがキッズにサインを書く場合、「タイガーのボブ」と、中の人を連想させる名前で書く場合もある*79。
名前の有無は日米における宗教観の違いが原因である。 日本の宗教観では無生物を命ある生物としてかわいがる事に抵抗はない。 例えば、ドラえもんはあくまでネコ型ロボットであるが、物語中であっても現実であっても、一つの生命として扱われる。 それゆえ、単なる着ぐるみであっても命が宿っていると考える。 一方、アメリカ(キリスト教)の宗教観では、生命を作る者は神しかいない。 ロボットはあくまでロボットでしかなく、仮にロボットに命を与えた場合、人間が神の仕事を冒涜した事になる。 それゆえ、着ぐるみに命はない。 こういった日米の宗教観の違いは実際のロボット開発にも影響しており、日本は友達ロボットを何の抵抗もなく開発できている。
日本のマスコットの場合中の人は秘密であるが、アメリカの場合必ずしもそうとは言えない。 日本のマスコットはそれそのものが生命を持っており、中の人の秘密はほぼ完全に守られる。 アメリカであっても基本的に中の人は秘密である。 中の人は多くの場合チアリーダーズの誰か、あるいは、チアリーダーズのトライアウトに落ちた誰かが入る。 場合によってはチアリーダーズすら中の人を知らない事があり、その場合、正体が知られると他の人に交代させられる。 一方、学校によってはマスコットになる事が大変な名誉であり、自分が中に入っていると周囲に自慢する学校もある*80。
マスコットにもチアリーダーズ同様にトライアウトが存在する。 マスコットのトライアウトは、まず着ぐるみを試着し、肌触りや臭いに耐えられるか確認する事から始まる。 次は面接であり、体操・ダンス・チア・マスコット経験、マスコットとして責任を持つ事についてどう考えているか? どのスポーツに出演したいか?最も困難だった出来事は?マスコットとしてやってみたい事は?やってはいけない事は?、 といった内容を尋ねられる。 実技では、ダンス、表現力、予期しない小道具を使った即興が試され、腕立て伏せをさせられる。 着ぐるみを着たまま腕立て伏せをできる人は誰もいないが、失敗した時のリアクションが問われるのである*81。
マスコットが暴力事件に巻き込まれる事もある。 アメリカの大学スポーツ、特にフットボールは、学生スポーツでありながら日本のプロスポーツに近い存在である。 フットボール選手は専用施設で練習し、プロの監督、プロのトレーナーが雇用され、専用の巨大スタジアムを保有する。 例えば、ハーバード大学は57,000人収容の専用スタジアムを1903年には保有していた。ちなみに当時の学生数は5,000人である*82。 そういった環境ではアルコールも販売され、これが観客を暴徒化させる。 暴徒となった観客はアウェイを訪れた相手チームのマスコットを暴行し、しっぽを剥ぎ取り、新聞に掲載される騒ぎになった*83。
マスコットはチアリーダーズの一部であり、チアキャンプと同様、マスコットキャンプも存在する。 チアキャンプとはチアリーダーズの合宿であり、普段別々に活動する各大学のチアリーダーズが集合し、スキルの向上を目指したり、親交を深めたりする。 マスコットもチアリーダーズの一部であり、チアキャンプにはマスコット・トレーニング部門も存在する。 マスコット・トレーニングではプロのスーツアクターが講師となり、マスコットのルール、動きを誇張したダンス、寸劇(パントマイムのように言葉を使わないパフォーマンス)を学ぶ事ができる。 マスコットキャンプはスキルを向上させるだけでなく、マスコットどうしという、チアよりさらに少ない友人との親交を深める事ができる点が魅力である*84。
マスコットが集まる徒競走大会では、マスコットの足を外し、スニーカーをはいての真剣勝負が繰り広げられる。 日本のマスコットは魂を持った生きものであり、その足を取り外す事は、生きものの足をもぎ取る事と同じである。 しかしながら、マスコットは単なる着ぐるみで魂がないと考えるのであれば、足を外し、膝から下が人間のスニーカー履きであっても 問題ない。 マスコットが集まるイベントで徒競走が実施される場合、このような光景が散見される。 とはいえ、マスコットに魂があると考える人は足を取り外さずに後ろ向きに走ったりして、笑いで注目を集めようとする*85。
フラッシュカードとは、ジャケットを着たり脱いだりして、巨大なスタジアムに巨大な人文字を作る応援部門である。 フラッシュカードの始まりはカリフォルニア州の学校であり、スタンフォード大学(カリフォルニア州)等、 いくつかの学校が起源を主張している。 1920年から1923年の南カリフォルニア大学のエールキング(チアリーダーの別称)だったリンドル・ボスウェルは、 最初の大規模フラッシュカードを組織した*86。 当時2,500人が参加して人文字や絵をフラッシュカードで作った。 参加したメンバーは隙間なく客席に座り、白いシャツ、蝶ネクタイ、ホテルのドアマンのようなベルホップスタイルの帽子を着用していた。 このチアリングがその後のフラッシュカードの雛形となり、ボスウェルはオレゴン州立大学でも指揮を取った
日本の場合、ジャケットの代わりにプラカードを掲げて人文字や絵を作っている。 プラカードを使うメリットは、初期コストの低さ、扱いの容易さ、メンテナンスの容易さである。 プラカードはビニールや紙で製作されており、ジャケットを購入するよりはるかに安い値段で数を用意できる。 また、上下に動かしたり、裏表を反転するだけで扱う事が可能であり、素早く着たり脱いだりする技術が不要である。 メンテナンスは汚れを拭き取るだけであるが、ジャケットだと洗濯する必要がある。 あえてジャケットを使う理由は、今となっては、伝統以外に見当たらない。
便利なプラカードでなく、あえてジャケットを使う点がアメリカのストロングポイントなのかもしれない。 アメリカのストロングポイントとはリソース(資源、エネルギー、カネ)の豊富さである。 例えば、第二次大戦中のアメリカは航空機の空力実験に実機を使っていた。 空力実験とは飛行機に風を当てて浮力が発生するかどうか確かめる実験である。 実機を使った実験は、当然ながら大規模な設備とコストを必要とした。 一方、その頃の日本やドイツは飛行機の精密な模型を使って同じ実験をしていた。 日本やドイツの技術(あるいは美学)を圧倒的なリソースで凌駕する点がアメリカの強みなのだ。
マスコットとはきぐるみを着たチアリーダーである。 その仕事は形式張ったチアリーダーズにちょっとしたかわいさと笑いのエッセンスを加えるものであり、チアリーディングに奥深さを出す。 フラッシュカードとは人文字の一種であり、ジャケットを着たり脱いだりして文字を作る。 フラッシュカードを日本で見る事はまずなく、代わりにプラカードを使った人文字を甲子園のアルプススタンドなどで見る事ができる。
チアリーディングの始まりは1869年11月6日のプリンストン大学vsラトガーズ大学のフットボールの試合である。 当初自然発生的に実施されていたチアリングを観客の一人が取りまとめるようになり、チアリーダーと呼ばれるようになった。 大学スポーツの権威向上と共にチアリーダーも大学が任命するようになり、また、スタジアムの大型化に合わせてチアリーダーの人数が増えて、 チアリーダーズとなった。 女子のチアリーダーズは1923年にトリニティ大学サンアントニオ校で誕生したと考えられる。 女性の社会進出と共に女子チアリーダーズの割り合いが増加し、ミシガン大学が男女混合の伝統を終えた1975年に チアリーディングは女性のものとなった。
チアリーディングの制度化とは、チアリーディングを確立させた「トライアウト」と「商業化」という二つのシステム化(組織化)である。 チアリーディングが学校に普及し定着すると、アメリカを象徴する、二つの大きな変化が起こった。 その変化とは、トライアウトの実施と、参加者の増加に伴う商業化である。 トライアウトとは、学校のリーダーかつ人気者というチアリーディングの定義にふさわしい人間を選抜する試験である。 商業化とは、トライアウト、クリニック、キャンプといった、プロの指導によってチア技術の向上を目指す、商業的ワークショップの開催である。 制度化によってチアはパッケージとして確立し、様々に派生して、世界やエロチックな分野にも拡大した。
学校でのトライアウトは、アメリカ的競争社会、ひいては、アメリカ的格差社会の象徴である。 極端な競争は、極一部の人間がほぼ全ての利益を独占し、ほぼ全ての人間が極一部の利益しか得られない状況を生み出す。 この状況の問題点は、資産だけにとどまらず、教育や知性にも大きな格差を生む点である。 ほぼ全ての人間の知性が極めて低下した上で選挙が実施されると、知性の低い人間が選んだ、知性の低い人間が当選する。 低知性による政治は低知性にも理解できる極端な政治となり、わかりやすく、軍隊が非武装の移民を銃で威嚇するようになるのである。
商業化もアメリカ的拝金主義の象徴である。 エリートしか許されなかったチアリーディングが、オールスターチアの登場によって、裾野が広がった点が商業化の功績である。 しかしながら、その過程により、誰かを応援する気持ちが失われた点が商業化の罪過(ざいか)である。 応援する気持ちの代わりに、アメリカ的拝金主義によって強調されたものが、ピカピカしたハデなライトや大音量のサウンドである。 他人の愚を手助けしてやるほど合理的なカネ儲けはない。 商業化による愚の促進よりも、まずは人格的に優れた指導者による教育の促進が優先のはずだ。
制度化され一つのパッケージとして確立されたチアリーディングは、様々に派生し拡大した。 その派生として、競技チアリーディング、急進的チアリーディング、ゲイとレズのチアリーディング、 皮肉チアリーディング、高齢者チアリーディングがある。 チアは世界中に拡大し、また、エロチックな分野にも拡大して1つのジャンルを作り上げた。 アメリカ発祥のチアは各国の事情に合わせて変化し、日本やヨーロッパへと広がった。 チアリーディングのエロとは処女(男を拒否する)と誘惑(男を受け入れる)という、互いに相反する要素である。 男性が求めるこのファンタジーを叶える映像作品が現在も作られ続けている。
チアリーディングとはアメリカそのものである。 というのも、アメリカのリーダーシップと献身を男性というレンズで見るとフットボールになり、女性というレンズで見るとチアリーディングになるからだ。 両者は同じ存在であり、その正体がアメリカである。
トライアウトとは、学校のリーダーかつ人気者というチアリーディングの定義にふさわしい人間を選抜する試験である。 格差の(比較的)少ない日本における役職の決定は合議であり、推薦も珍しくない。これは、役職についたところで無役との差がほとんどないからである。 初期のローマの王は合議で決定され、任期満了後は農民に戻っていた。これを見ると、王も農民も大して差はなかったのであろう。 一方、格差の激しいアメリカにおける役職の決定は競争であり、勝った者は全てを得て、負けた者は全てを失う。 勝った者だけが女王として学校に君臨し、良い学校や会社に進み、男子全員の愛を独占するのであれば、激しい競争は必至である。
チアリーダーズの選抜にも歴史があり、自発的、指名制、トライアウトと、ステップを踏んできた。 それらの歴史と、トライアウトにまつわる訴訟や事件を紹介する。 また、トライアウトと人種差別は切り離せない要素である。 白人以外のチアリーディングへの参加はゆっくりと進んだが、時に死者が出る暴動も引き起こした。 その後トライアウトは制度上公平になったものの、チアリーダーの外見的固定概念により、白人以外の人種がチアを辞退する泥沼となっている。
チアリーダーズの選抜は、自発的、指名制、トライアウトの順で進んできた。 チアリーディングが自発的に行われていた時代にはトライアウトは存在しなかった。 というのも、観客席から飛び出して仲間の応援を鼓舞すれば、誰でもチアリーダーになれたからである。 その後、スタジアムの拡大と共に自発的チアリーダーが限界を迎え、学校が公式に指名したチアリーダーが応援の指揮を取るようになった。 大学間スポーツが盛んになり、スポーツが学校を代表するようになって、チアリーダーも学校を代表するようになる。 学校代表を公正に選ぶために、トライアウトが実施されるようになった。
人種差別撤廃前、白人と黒人は別れてトライアウトを実施してきた。 綿花がヨーロッパで高値で売れるようになった1700年代から、アメリカで黒人による奴隷労働が本格化した。 1861年、工業化によって奴隷が不要になった北部アメリカと、農園で働く奴隷が必要な南部アメリカが内戦を勃発させ(南北戦争)、 北軍が勝利して黒人奴隷は開放された。 しかしながら、人権を国是とし世界各地で「自由の戦士」を軍事支援するアメリカ国内の黒人は、人権も自由も制限されたままであった。 人種差別時代のアメリカは、学校・教会・バス・水飲み場・トイレも白人と黒人が分離されており、当然チアリーディングも別々であった。 白人チアと黒人チアはそれぞれ独自に進化し、交わる事は決してなかった。
人種差別撤廃後、白人と黒人のトライアウトは統合されたが、解決できない人種的問題が依然として暗い影を落としている。 1964年、アメリカにおける人種差別が撤廃され、白人学校と黒人学校が統合されるようになった。 しかしながら、統合された共学校における黒人は少数派であり、黒人独自の感性的チアリングは失われ、黒人チアの数も減少した。 1969年、黒人がチアに選ばれなかった事により暴動が発生し、15歳の男子生徒が死んだ*1。 黒人だけでなくヒスパニック系も疎外され、チアに関するストライキがラザ・ユニダ運動(ヒスパニック系による民族運動)につながった。 多くの努力により制度上は公平になったが、「元気なポニーテール」というチアの固定概念により、白人以外はチアを辞退するという 解決不能の状況に陥っている。
最初のチアリーダーは自発的であり、また、初期のチアリーダーは学校による指名制で、トライアウトはなかった。 大学間スポーツが盛んになり、エリートスポーツ選手が選ばれるようになると、チアリーダーもトライアウトで選ばれるようになった。 1920年代のトライアウトは、特定のグループか全学生が選抜し、準備講習会と選抜試験があった。 1930年代になると高校でもトライアウトが始まり、練習、ふるい落とし、トライアウト、選挙という、多くの学校で用いられるトライアウトの雛形ができた。 1990年代になるとトライアウトの競争的要素が激化し、その結果、不合格になった生徒が訴訟を起こすようになった。 さらに、娘をトライアウトに合格させるべく、娘のライバルの母親を殺害しようと企んだ事件も発生した。
非公式の自発的チアリングにトライアウトはなく、学校公式となっても、当初は指名制であった。 1800年代から1900年代のチアリングは、観客席から飛び出して仲間の学生を煽り立てた男子学生によって実施されていた。 このチアリングは自然発生的な非公式チアでありトライアウトはない。 しかしながら、スタジアムの拡大に伴ってフィールドと客席が分離された時、自然発生に任されていた自発的チアリングは限界を迎えた。 そこで、意図的に観客を組織化し応援させるための人間を大学が公式に選ぶ事にした。 選ばれた人間は、客席のクォーターバックとしてのリーダーシップを持ち、人気、個性、カリスマ、良い外見を持ったパフォーマーであった。
大学間スポーツが盛んになり、大学を代表するチアリーダーもトライアウトで選ばれるようになった。 1900年代になると大学間スポーツが盛んになり、大規模スポーツ大会が開催され、チアリングが組織化するようになった。 スポーツが大学を代表するようになり、そこでの応援を組織するチアリーダーもまた、大学を代表するようになったのである。 1920年、大学の代表としてのチアリーダーはトライアウトによって選ばれるようになった。 チアリーダーを選んだのは、様々なグループ、学部の委員会、体育学部、全学生であり、タンブリングスキルと外向性が問われた。 このトライアウトに合格するために、準備講習会も開催された。
トライアウトの合格をサポートするために、本格的なチアリーディングコースを設立させた大学もあった。 1924年、トライアウトに合格するために、スタンフォード大学とバデュー大学(インディアナ州)がチアリーディングコースを設立した。 スタンフォード大学では、観客心理学、声の正しい使い方、舞台上における存在感の作り方、コーチが期待する要素を教えた。 また、講師として、大学客員だけでなくフットボールコーチも招かれた*2。 しかしながら、「ニューヨーク・タイムズ」誌はチアリーディングの価値をフットボールと比較して次のような社説を書いた。 「フットボールは勇気、自制心、チームプレイを教え ... しかし、チアリーディングコースは具体的に何を教えるのか?*3」 バデュー大学では最初の年のコースに30人が所属し、「人々を扇動し揺り動かすために」大衆心理学等を教えた*4。
大学のトライアウトは学校の公的な代表者を決定するものであったが、中学高校のトライアウトは他の生徒の模範となる人物を選ぶものであった。 1930年代、大学の模倣を続けていた高校もトライアウトを導入した。 しかしながら、中学高校はチアリーディングを教育の一環と考え、教師達は他の生徒の模範となるべき生徒達をチアリーダーズとして選抜した。 1939年、M.L.ステープルはペップ(応援)集会について次のように述べた。 「学校集会は、現実的な社会奉仕活動のための、教員によるグループ指導を行う機会の一つとなった。応援トレーニングはアメリカ式民主主義のトレーニングである ... 学校は民主主義という価値あるアメリカの特徴に関して、トレーニング以上の状況を提供する事が可能である。*5」 1955年のニューアーク高校(デラウェア州)の「チアリーダーズとして求められる特徴」は、 良好なマナー、責任感、頼りになる存在、リーダーシップ、優良な奨学生、高水準な市民性、良好な容姿、調和性、声であった*6。 ポートランド(オレゴン州)ルーズベルト高校の男女混合ラリースクアッド(大規模学校集会向けスクアッド)のメンバーには、出席回数、学年、素行(「無断欠席や停学」が少ない事)、健康状態が条件とされ、さらに、ファイナリストには「心構え、人を元気にさせる個性、ジャンプ能力」が 要求された*7。
1930年代から1940年代の高校でトライアウトの雛形ができた。 トライアウトは選考の繰り返しであり、ファーストステージ〜ファイナルステージなどと呼ばれる試験を受ける。 具体的には、トレーニング、教師・コーチ・現役チアリーダーズ・その他生徒のリーダーを含む審査員グループによるふるい落とし、 公開トライアウト、全校生徒による選挙という手順を踏む。 選考の繰り返しによって模範となる生徒を教師が選び、大学でのトライアウトの名残りとして選挙を行う*8。 こういったトライアウトは、ラシーン(ウィスコンシン州)のワシントン・パーク高校での以下の流れを雛形として、1950年代から 多くの学校で用いられるようになった*9。
1. 登校初日に体験練習会の実施がアナウンスされる。体験練習会に興味を持った全ての生徒は参加することができる。1972年の性差別禁止法案によって競技チアが誕生し、新しい時代の新しいチアが求められるようになった。 1972年、学校での性差別を禁止したタイトルIX法案が制定され、男性同様にサイドラインで元気にチアーズを披露する女性が求められた。 しかしながら、女性のチアへの進出はチアのイメージを失墜させ、民間のチア組織は潜在的な収益の悪化に直面した。 この時、ワシントン・ポストは「あるいは、チアリーディングは消滅していたかもしれない。」と書く*10。 そこで、チア組織は、理想的かつ新しい女性のイメージに合致したチアとして、高い運動能力を必要とし、ショービジネスを融合させた、 競技チアを作り上げた。 激しい動きを伴い、速いペースの音楽に合わせたダンスがチアキャンプで強調されるようになり、 新しいチアに必要な、敏捷さ、協調性、優れた運動能力を持つ女性が求められるようになった。
競技チア、ならびに、選考過程に不満を持つ親の影響により、学校でのトライアウトも変化した。 全国規模の民間のチア組織により、チアリーダーのイメージが「人気のある女子」から、「アスリート」「エンターテイナー」へと変化し、 学校のチアリーダーズにも影響を与えた。 新しくなったチアリーダーズのイメージに合致させるために、トライアウトに合格する基準が、大衆的人気から、 タンブリング・スタンツ、ジャンプ、ダンスムーブといった、音楽を伴う激しいチアルーティーンを実行できる身体能力へと変化した*11。 また、選考過程の公平性に不満を抱く親に対処するために、全校生徒からの投票をやめて外部の審査員による審査に切り替えた。
2000年代になると、学校のチアリーダーとなるために、トライアウトの準備を何年も前から始める必要が出てきた。 2003年のモンロー高校(ワシントン州)での保護者向けトライアウト説明会で、チアコーチは次のように言った。 「こんにちのチアリーディングとはスポーツであり、アスリートだけが応募に値するのです。*12」 その言葉の通り、アラバマ大学では初日からスタンツの練習が始まり、ミドルテネシー州立大学のトライアウトは次の条件を要求する*13。
・バックハンドスプリング1963年のジョージア大学(ジョージア州)では「男性は50ヤード(45.72メートル)を連続宙返りできる事。 女性はトライアウト前にタンブリングとトランポリンでの宙返りトレーニングに三週間参加する事*14。」というものもあった。 小学校、中学校、高校のチアはこれらより緩い条件であるが、普通の人間の身体能力では全く歯がたたない。 そこで、各地の独立チアスクアッド(チア教室)、ポップワーナー・スクアッド(5歳から16歳にフットボールを教える非営利団体に所属するスクアッド)、幼児スクアッドは、4〜5歳から、中学、高校、オールスタースクアッドの合格を目指すクラスを開講している*15。
トライアウトにおける競争的要素の増加により、不合格になった生徒が訴訟を起こすようになった。 1995年、ニューポートハーバー高校(カリフォルニア州)のチアに不合格になった生徒の親が、トライアウトに不正があったと学校を提訴した。 この訴訟は学校が50,000ドル支払う事で決着した。 そして、三つの独立した外部機関がトライアウトを専門的に審査し、認定公認会計士が集計し、女性有権者同盟の代表が立会人を務める事になった。 外部の中立機関への審査の依頼は、1991年のマウント・カーメル高校(イリノイ州)においても見られる。 同校は、地元のチア関係者、受験生徒、学校関係者のみという審査過程を変更し、外部であるウォバッシュ郡(インディアナ州)の大学に所属する チアスクアッドのメンバーだけが審査する事になった。 これにより地元の人間は審査過程から外された。
時にはトライアウトに合格した生徒も告発する。 2001年11月、前述のニューポートハーバー高校の校長が審査員の決定を覆して48人の希望者全員をスクアッドに加入させた。 この時、トライアウトに合格した親に後押しされた、教師ではないコーチが校長に不平を言った。 そして、コーチを後押しした親の一人が学校を告発し、調査チームが組織された。 調査チームはトライアウトが公正であり、校長の判断は不公正であると結論づけた。 校長は決定を撤回し、元々合格していた30人だけがチアをできるようになった。 一方、妥協もあり、トライアウトを再度実施する事によって4人が追加で選ばれた*16。
娘のトライアウトに熱心に打ち込む親の愚行は新聞でも批判された。 ニューポートハーバー高校のトライアウトは2001年の同時多発テロ事件の2ヶ月後であり、アメリカの関心はテロとの戦いに向けられていた。 そんな中、チアトライアウトの醜聞を、ロサンゼルスタイム誌の投書は次のように批判した。 「タリバン、アルカイダ、オサマ・ビンラディンの所在なんて放っておけ。最も緊迫した事態は、ニューポートハーバー高校の『ポンポン校門』の下で起こっている*17。」また、スポーツ奨学金で南カリフォルニア大学を卒業したジューリー・ハダッシュは次のように書いた。 「私はニューポートビーチで起こった『危機』について、いくつか提案をします。最初に、学校関係者は今年のチアリーディングを中止した方が良いでしょう。その上で、チアリーディングの予算を生徒にとって真に価値あるものに投資します。また、厚かましく過保護な親のために、学校は両親がチアリーダーズに就任するチャンスを与えた方が良いでしょう。そのチャンスにおいて、あの頃への若返り、あるいは、ファンタジックな高校生活の再来のために、両親はカネを支払う事でしょう。母親はチアリーダーズや同窓会での女王様になる事が可能です。やり手の父親は、昔夢見たように、スーパーアスリートになる事が可能です。そうやって両親が忙しい間、生徒達は本当に重要な事に集中し、責任ある大人に成長する事ができます*18。」
親の愚行がエスカレートし、ついにチアトライアウトに殺人を依頼する事件も発生した。 1991年、チャネルヴュー(テキサス州)のワンダ・ウェッブ・ホロウェイが殺人依頼罪で逮捕され起訴された。 その容疑とは、トライアウトで娘が対戦する13歳女子の母親を殺すために、殺し屋を雇ったという容疑である。 母親が死ねばライバルの娘は動揺してトライアウトに出場できず、自分の娘が合格するという考えであった*19。 ワンダには10年の懲役が求刑され、6ヶ月間刑務所に入り、残りの期間は保護観察処分となった*20。 この「テキサス・チアリーダー・ヒット・マム(チアリーダー殺人ママ)」はアメリカに衝撃を与え、多くの批評家がチアを非難した*21。 また、この事件は本として出版され、二本のテレビ映画となり、「闘犬用ピット・ブルとチアリーダーの母親は何が違うのか?」答え:「口紅が付いているか否か。」というジョークも産んだ*22。
最初のチアリーディングは客席から飛び出した観客によるもので、自発的チアリーダーであった。 やがて学校がチアリーダーを指名するようになり、大学間スポーツが盛んになると、トライアウトでチアリーダーも選ばれるようになった。 これは、大学スポーツの選手が大学を代表するように、チアリーダーも大学を代表したからである。 トライアウトは高校でも始まり、競技チアの影響もあって、より高い運動能力が求められるようになってきた。 また競争率も高くなり、トライアウトの結果を不服とした訴訟が起こされたり、娘のライバルの母親を殺害しようとする事件が発生した。
人種差別撤廃前、白人と黒人は独自のチアを別々に作り上げており、両者が交わる事はなく、当然トライアウトも別であった。 1791年、アメリカの独立宣言は「全ての人は生まれながらにして平等である」と高らかに謳い上げたが、ジョージ・ワシントンは 100人以上の奴隷を保有し、自身の荘園で働かせていた*23。 1865年、奴隷解放を名目とした南北戦争が終了しても、「分離すれども平等」という、根強い人種差別が残った。 分離は学校・教会・バス・水飲み場にまで及び、白人学校と黒人学校のそれぞれがチアリーダーズを保有し、独自に進化した。 白人チアは軍隊的ムーブを特徴とするチアリングで、黒人チアは歌やリズムによる感性的なチアリングであった。 これら二つのチアリングが交わる事は決してなく、当然トライアウトも分けて実施されていた。
最初、人種差別によって隔離されていた白人と黒人のチアリーダーズは、それぞれ独自のチアを作り上げた。 1900年代になり、多くの女性と中間所得層が大学に進学するようになって、課外活動に参加するチャンスが黒人にも広がった。 しかしながら、白人と黒人は人種的に隔離されており、黒人スポーツ選手と黒人チアリーダーズの活動は、 特定人種専用大学とパブリックスクール(エリート向け学校)に制限されていた。 白人と黒人が共にスポーツをプレイする事は決してなく、チアリーダーズの交流もなかった。 それゆえ、隔離された大陸で同じ生物が別の進化を遂げるように、白人と黒人のチアリーダーズはそれぞれ全く別のチアリングを作り上げた。
人種的に隔離されていた時代の白人のチアは軍隊的であった。 人種差別撤廃以前のコリント(テネシー州)には、白人が通学するコリント高校と、黒人が通学するイースマン高校の二つの高校があった。 父親がイースマン高校の校長だったハロルド・ビショップ博士が1950年代初めにコリント高校を訪れ、 両校のチアスタイルの違いを観察し、白人チアについて次のように述べた。 「コリント高校チアリーダーズが実施していた応援の様式は、順次的で軍隊化されていた。また、コリント高校は数字を使って応援していた。誰かが片腕を上げた時、他の人達も腕を上げ、『ゴー、ゴー、ゴー、チーム、ゴー!』と言った後、全員が同時に頭を垂れた。この練習は何度も繰り返された。チアリーダーズはやる気に満ちていたが、軍国主義的であった。*24」
人種的に隔離されていた時代の黒人のチアは感性的であった。 イースマン高校のチアは練習が少なく、即興を組み合わせた独創的なものであり、感性的であった。ビショップ博士は言う。 「ある女子が突然『取った』と叫ぶかもしれない。それを聞いて、調整役以外のメンバーは『何を?』と言うであろう。女子は少し大きめの声で『取った』と叫ぶ。他の女子達も『何を?』と言う。その後、チアリーダーズが観客に加わる。女子は自分の足首をつかんで言う。『私の足首の中にある』『どこ?何を?』『膝の中』女子は順次下から自分の体の部位をつかみ続け、頭の先まで到達した時、『イースマン・スピリット!』と叫ぶ。イースマン・スピリットを持っている他の人達も同様に叫ぶ。」
黒人のチアに音楽は欠かせない要素であり、ブルースと教会音楽の両方の影響を受けた。 黒人チアにおけるブルースとバプテスト教会(キリスト教の一派)の強い影響に関して、 ハロルド・ビショップ博士はインタビューで次のように考察している。 「当時のチアリーダーズのチアリングは練習に基づいておらず、スピリットに基づいていた。彼らは我々の教会文化を土台にしていると、私はいつも感じていた。それゆえ、若い女性がチアリングに神を賛美する言葉を組み入れても不思議ではなかった。*25」
黒人チアはラジオで聞いたブルースの替え歌でチアリングを披露した。 イースマン高校のチアリーダーズはチアとダンスを融合させており、ブラスバンドが音楽を奏でると即興でダンスを披露した。 また高校生達はアフリカ系アメリカ人向けラジオ局のWDIAとWCLAが流すブルースの影響を受けており、 黒人歌手のエイモス・ミルバーン(1927-1980)の「バッド、バッド・ウイスキー」を次のような即興替え歌で歌った。
今朝家を出た黒人歌手のビッグ・ジョー・ターナーの「シェイク、ラトル、アンド・ロール」は最も人気のあったチアーズの一つであり、 対戦相手の名前を組み込んで使用した。
俺達は、ロール、ロール、フットボール、ロールしてやる黒人チアは教会音楽(賛美歌、ゴスペル)の替え歌も使用した。 教会の音楽も黒人チアに影響を与えた。というのも、多くの南部アフリカ系アメリカ人の人生における全ての側面に、 バプテスト教会が大きな影響を与えていたからである。 黒人チアリーダーズはバプテスト教会の賛美歌である「ウィー・シャル・ナット・ビー・ムーブト(我々は動じない)」の替え歌を歌った。
我々は動じないこの時、動じない人物として、タックルしたりガードしている選手の名前を組み込んだ。
黒人ゴスペルは白人チアにも影響を与えた。 1960年代から1970年代早期にかけて黒人ゴスペルから派生したソウル・ミュージックとリズム・アンド・ブルースは、音楽シーンだけでなくダンスシーンにも影響を与え、チアリングにも波及した。 1966年、黒人チアリーダーのエディ・アンダーソンはカリフォルニア大学ロサンゼルス校の主任エールリーダーに立候補し、カリフォルニア州における大学チアリングへソウル・エールズとソウル・ダンシングを導入して、高い評価を得た*26。 1971年の「ニューヨーク・タイムズ」誌は黒人ゴスペルの影響を次のようにレポートした。 「ここ数年のチアリーディングにおけるちょっとした新しい流行の一つは、白人高校と人種混交高校の両方における、チアリングレパートリーへのソウル・エールズ要素の追加である。*27」 1972年、ローレンス・ハーキマーは「リズム、ソウル・チアーズ、応援歌」を組み合わせ、以下のような応援歌を自身のチアキャンプで教えた*28。
偉大なソウルを手に入れた1940年代のリズム・ナスティック、1960年代のソウルとブルース、1990年代のジャズとヒップホップなど、 それぞれの時代でヒットしたダンスムーブはそれぞれの時代のチアリーディングスタイルに影響を与えた。
南部のアフリカ系アメリカ人社会は、ビショップ博士が強調するように、独創的なチアリングを求めていた。 シャーロット(ノースカロライナ州)にあるセカンドワード高校出身のジェイムズ・ロスは次のように述べ、ビショップ博士の主張を裏付けた。 「ただ、フレー、フレー、フレーと叫ぶだけではなかった。最新の歌やダンス、ならびに、それらに学校名などを組み込んだチアーズを考案していた ... 去年と同じチアーズを使う事はできなかった。といのも、去年のチアーズを聞きたい人は誰もいなかったからだ。それゆえ、毎年新しいチアーズを考案しなければならなかった。*30」
黒人のチアーズはスピリットから来ていたが、白人のチアーズは誰かの焼き直しに過ぎなかった。 足首から頭の先に通り抜ける何か、黒人歌手が歌うブルースの替え歌、教会音楽の替え歌、これらの根源は黒人のスピリットである。 スピリットとは霊性であり、感受性、感性、感傷等、言葉では表現が難しい、人間の内側から表皮を掻き立てる熱い何かである。 その何かが人間を破って飛び出し、黒檀に刻まれたものがマコンデ美術であり、スポーツに発露されたものが黒人チアである。 一方、白人のチアは当時(1950年代)始まったチアキャンプの内容を焼き直し、どのスクアッドも同じようなチアを見せていた。 チアキャンプを主催していたナショナル・チアリーディング・アソシエーションの副社長は次のように言った。 「前回のキャンプに来る前は、どこからチアーズのアイディアを得たのだろうか?*31」 この言葉は、白人のチアはチアキャンプ以外からアイディアを得ていない事に対する皮肉である。
人種差別が撤廃される前、白人と黒人はそれぞれ独自のチアリングを作り上げていた。 白人のチアリングは順次的な軍隊式チアリングであり、黒人のチアリングは感性的で自由なチアリングであった。 また、白人のチアリングは同じような内容が繰り返されたが、黒人のチアリングは毎年新しくされ独創的な内容だった。 人種差別が実施されていた時代、白人と黒人は学校もチアリングもトライアウトも完全に別であった。
人種差別撤廃後にトライアウトも統合されたが、解決不能の人種的問題が依然として残されており、チアリーディングに暗い影を落としている。 1954年、ブラウン対教育委員会の最高裁判決により「分離すれども平等」の「分離」がそもそも憲法に違反すると宣告された。 1964年、公民憲法が成立し、国からの資金援助が制限されるようになって、ようやく人種差別の撤廃が進んだ。 分離されていた白人学校と黒人学校も統合されたが、それによって黒人が少数派となり、黒人独自のチアリングは失われた。 また、共学校のチアトライアウトが白人を優先させる結果となり、怒った学生が暴徒化して死者が出る事態となった。 根強く残る人種差別を克服するため、審査員の多様化、全員採用、比率採用といった解決方法を試みたが成功せず、 チアリーディングの負の側面としていまだに残り続けている。
1964年、アメリカにおける人種差別が撤廃され、黒人スポーツ選手の受け入れは進んだものの、黒人チアの受け入れは進まなかった。 1954年に人種分離政策は不当である訴えた裁判(「ブラウン対教育委員会」と呼ばれる)の最高裁判決が下り、人種分離指針は憲法に違反すると宣告された。 その後、1964年の公民権法によって人種差別を含んだプログラムへの連邦政府資金の投入が禁止され、大学において人種差別の撤廃が進んだ。 実際、これによって白人向け大学に黒人スポーツ選手が受け入れられるようになった*32。 一例として、1967年のパデュー大学(インディアナ州)フットボールチームには16人の黒人選手が参加した。 しかしながら、チアリーディングは違った。 なぜなら、すでに女性が主役となっていたチアリーダーは「ブロンド、青い目、小柄、ポニーテール、白人」の理想的なアメリカ人女子であり、 「黒い髪、黒い目、大柄、チリチリの髪、黒人」はその理想に反すると強く拒絶されたからである。 アメリカ人女子の理想は外見のみが議論され、内面がかえりみられる事はなかった。 1968年、バデュー大学では「黒人学生行動委員会」が黒人チアの参加を要求し、5人の白人男性と5人の白人女性のスクアッドに、 2人の黒人女性がようやく加わった。 この加入をスポーツ・イラストレイテッド誌は次のように批判した。
大学の保守主義を考慮すれば、女性向け社交クラブの女子学生と男性向け社交クラブの男子学生は、黒人二人のスクアッドへの加入に同意する前に、学校関係者の指導下で自己分析の実践を熟考しなければならなかった。指摘されていたように、どちらの女子もスクアッドに加入する権利を得ていなかった。というのも、両者ともに正規のチアリーディングトライアウトに参加していなかったからである。学校関係者は強制統合の原理が適用されたと感じた。多くの議論の末、チアリーダーズはパム・フォードとパム・キングの二人の黒人を不本意ながら受け入れる事で合意した。パム・キングは黒人学生行動委員会が実施するデモの扇動者としてキャンパスの混乱に関与する人物であり、良きチアリーダーになるための優雅さと品位を明らかに事欠いている*33。
チアリングスタイルの違いも黒人チア拡大の妨げとなった。 1972年、バデュー大学の黒人チアだったロー・リラードはマジソンスクエアガーデンで開催された インターナショナル・チアリーディング・ファウンデーションの試合で6人のオール・アメリカンチアリーダーズの1人に選ばれた。 その時のインタビューにおいて、人種的に平等な大学に黒人チアがほとんどいない理由を、ローは次のように述べた。 「黒人向け高校におけるチアリングの種類とは ... 足踏みでのクラップ、黒人の誇りを意味するソウルにおける体を揺らしながらのリズム ... 白人向けの学校における伝統的なチアリングとは腕を真っ直ぐに伸ばすモーションである。*34」 人種的に平等な学校は白人向け大学で発展した軍隊的スタイルを「伝統」とし、黒人向け大学で発展した感性的スタイルを「異端」とした。
学校統合による黒人の比率の低下も黒人チアの減少につながっているとローレンス・ハーキマーは主張した。 人種隔離政策が存在していた頃、白人学校の学生は100%白人であり、黒人学校の学生は100%黒人であった。 当然ながらチアスクアッドも、それぞれ白人学校は100%白人であり、黒人学校は100%黒人という人種比率であった。 しかしながら、人種隔離政策解消時における白人の絶対数と黒人の絶対数は白人の方が多く、両者が統合された学校の学生数も白人が上回り、 チアスクアッドの構成メンバー比率も白人が上回って黒人チアは減少した。 この件に関してチア起業家のローレンス・ハーキマーは次のように述べた。 「黒人チアリーダーズの数における人種差別は劇的に減少した。その理由とは ... 今や黒人だけの学校はほとんどなくなった。白人と黒人が混在する新しい学校では、黒人が少数派であり、頻繁に選ばれる事はない。*35」
なくなる気配を見せないチアの人種差別に黒人の抗議と暴動が発生し、15歳の男子生徒が死んだ。 1967年、イマジン・シニア高校(イリノイ州)で1,000人以上の黒人の生徒が授業を1週間ボイコットした。 ボイコットの理由は、練習に参加しなかった17人の黒人フットボール選手の扱いが保留となったからである。 選手は6人の代表チアチームに1人しか黒人が参加していない事を理由に練習に参加しなかった。 このボイコットにより、同校の教育委員会は選手の保留処分を取り消し、翌年の代表チームに3人の黒人を参加させる事を約束した*36。 1969年、バーリントン(ノースカロライナ州)のウォルター・ウィリアムズ高校の暴動では死人が出た。 同校は白人がほとんどを占める高校であり、チアは全校生徒の投票で決定されたものの、白人だけのスクアッドとなった。 翌日、黒人の生徒達が前庭に集合して抗議した。その夜、抗議は暴動へと変わり、校舎が焼かれ、投票結果を支持していた15歳のレオン・メバネが殺された*37。 1970年、ホワイト・プレーンズ高校(ニューヨーク州)でも暴動が発生し、黒人の生徒達がチアにもっと黒人を参加させるよう抗議した。 その結果、1971年の同校の代表チアは15人中5人が黒人チアとなった*38。
黒人だけでなくヒスパニック系アメリカ人も抗議し、その活動がラザ・ユニダ運動(ヒスパニック系による民族運動)につながった。 1969年、クリスタルシティ(テキサス州)の高校で28日間の授業のボイコットが発生した。 この高校は85%がメキシコ人の高校であったが、チアスクアッドには1人のヒスパニック系しか参加していなかったからである。 (メキシコ人の比率が多い理由は、1835年までテキサス州はメキシコ領だったからだ。) 生徒達は他に、スペイン語を話す権利、メキシコ系アメリカ人教師の増加、文化的に敏感な歴史における教育課程の増加を要求した。 このボイコットに関して作家のジェニー・ラルストンは「ラザ・ユニダ運動(ヒスパニック系による民族運動)が誕生したきっかけとなる出来事*39」と書いた。 ヒスパニック系アメリカ人によるこの民族運動は、テキサス州だけでなく、カリフォルニア州にまで広がっていった。
ミシシッピー大学(ミシシッピー州)では南部連合国旗をめぐる差別が発生し、新しい旗に取り替えられた。 1982年、ミシシッピー大学における初めての黒人チアリーダーとして、ジョン・ホーキンスが選出された。 ジョンは試合で南部連合国旗(南北戦争で使用された南軍の旗。南軍は黒人の奴隷制度を支持していた。)を振る事を拒否し、脅迫を受けるようになった。 ジョンの寮の部屋の扉が放火され、部屋は水浸しになり、父親の仕事も脅迫を受けた。 ブラウン対教育委員会の裁判から28年、公民権法から18年が経過していたが、差別はまだ残っていたのである*40。 1991年、大学は南部連合国旗の使用の可否を学生に尋ね、その結果、フットボールの試合で新しい旗が使用される事になった。 南部連合国旗の使用を楽しみにしていた人達には、代わりとして、ポンポンが配布される事になった*41。
チアスクアッドの白人に偏った人種構成比は生徒の両親を怒らせ、教育委員会の会合を紛糾させた。 1991年〜1995年におけるウィチタ中学校(カンザス州)チアスクアッドの人種比率は白人75%その他25%であり、学校の人種比率と一致しなかった。 1994年、黒人女子のアラナ・オズボーンがスクアッドを不合格となり、ポニーテール、身長、体重などの必要条件が白人に有利に働いていると、母親が教育委員会に訴えた。 学校は、必要条件以外に、高額な参加費用と(体操教室への通学が必要な)体操スキルを要求する選考基準が、低所得家庭を排除していると判断した。 この判断に危機感を抱いた白人達は新聞広告と電話によるキャンペーンを実施し、会合に300人を動員して校長を非難した。 地元の新聞はこの会合を次のように報告した。
「月曜日であるにも関わらず立錐の余地がないほど人々が集合し、チアリーダーズの選考と資格に関して提起された問題が、地域社会から教育委員会にぶつけられた。そこでは、オズボーン夫妻を除き、全ての議題においてチームの現状維持が賛成された。それだけでなく、セレクション過程の全てが公正であると考えられた。」
この記事が掲載された三日後、新聞社に次のような手紙が届けられた。
「我々大人は競争が人生を生きる手段であると理解しており、職業、配偶者、その他価値あるものに関して、常々競争している。その競争の価値について、親によっては子供に教育する事を拒否しており、私は危惧している。そういった親は、こんにちの我々の社会におけるあらゆる側面において、自尊心を保つために、平凡である事を子供に教えているようである。競争がなければ、全てが平凡になるであろう。成功とは、勤勉、献身、ハードワークの成果である。」
この手紙はアメリカ的競争社会の重要性を説いていたが、その前提となる、ポニーテール、身長、体重といった身体的公平性、ならびに、所得状況といった金銭的公平性への配慮が欠如していた。
委員会の投票の結果、5-4でオズボーン夫妻の申し立ては却下され、夫妻は市民権局に正式な異議申し立てを行った。 一ヶ月間の調査の結果、市民権局はマイノリティに対する差別を認定し、トライアウト希望者向けのチア準備クラスの開講、 マイノリティ審査員の採用、必要条件からの差別的文言(ポニーテール、身長、体重)の削除、参加費用の上限を提言した。 白人達は再度新聞に広告を出し、会合に大勢詰めかけたが、市民権局の提言は6-3で承認された。 この件に関して新聞は次のような記事を書いた。「人気の高いプログラムを獲得するために、必要とするスキルを磨きたいと希望する全ての生徒に対して平等となる。*42」
ウィチタ中学校の例は特別ではなく、全米各地でチアトライアウトでの人種差別に関する裁判が起こり、市民権局への不服の申し立てがなされた*43。 1970年、セミノール・カントリーパブリックスクール(フロリダ州)の代表チアスクアッドでも差別撤廃を求めた訴訟が起こされた。 この学区は14%が黒人であったが、スクアッドは主に白人で占められていた。 コーチ、学校関係者、親が二年間をかけて調査した結果、前述したウィチタ中学校のように、 ユニフォーム・大会参加費等年間1,500ドルを必要とする金銭的事情と、タンブリングのスキル不足がトライアウトに参加できない理由であった。 この調査結果を踏まえ、学校関係者は次のような解決方法を考案した。 1、多額の出費を必要とする競技会への参加を年4回に制限する。2、州規模の「チアフェス」を開催し収益を得る。3、大学が開催するキャンプへの参加費用を低減させるため、全国規模のチアキャンプを開催する。4、タンブリング重視を軽減させるため、トライアウトの基準を確立する*44。
学校関係者達は人種問題の解決に取り組み、公平性を保つための方針がいくつか発案された。 市民権局、学校、不服申立人の三者でトライアウトの問題を解決できない場合、連邦政府からの補助金が全額引き上げられる可能性がある。 そのような理由もあり、学校関係者達は問題を解決すべく、審査員の多様化、全員採用、比率採用という3つの方針を発案した。 審査員の多様化とは、人種的、民族的に多様であり、なおかつ、学校とは無関係な外部の人間を審査員とする方針である。 比率採用とは、チアスクアッドの人種比率を学校の人種比率と同じにする方針である。 全員採用とは、希望する全員をトライアウトなしでチアスクアッドに加入させる方針である。
審査員を多様化する選考方針により、より多様な生徒がチアスクアッドに合格できるよう試みた。 この方針は、学校内部の限られた審査員という閉鎖性により生じる不公平を解消するため、人種的、民族的に多様であり、なおかつ、 学校とは無関係な第三者による開かれたトライアウトでの公平性を追求するものである。 1991年、マウント・カーメル高校(イリノイ州)は「スポンサー、受験生、学校関係者」のみという閉ざされた構成を変更し、 「ウォバッシュ郡(インディアナ州)の大学に在籍するチアスクアッド」を審査員として、地元の人間は審査する事ができなくなった*45。 1998年、市民権局による苦情を解決し、ウィチタ中学校の審査員は人種的に多様になった*46。 2003年、モンロー高校(ワシントン州)でもコーチは選考過程に一切関与せず、異なる大学の三人のチアリーダーズが審査した*47。
人種の比率を考慮する選考方針により、より多様な生徒がチアスクアッドに合格できるよう試みた。 1977年、ウインスボロ高校(ルイジアナ州)の人種比率は、白人が50%、黒人が50%だった。 同校において、新人、二年生、ジュニア、シニアの各チアリーダーズを選出する場合、各チアリーダーの比率も1対1であった。 この可変比率方針は10年以上継続された*48。 シャーロット(ノースカロライナ州)のメクレンブルク教育委員会は固定比率方式を採用した。 これにより、チアリーダーズを選出する場合は、3分の1が白人、3分の1が黒人、3分の1がその他の人種となった*49。
チアリーダーを希望する人達を全員加入させる選考方針により、より多様な生徒によるチアスクアッドの構築を試みた。 1998年、アープ(テキサス州)の二人の黒人中学生がトライアウト時に審査員が体重に関して不適切な発言をしてスコアを修正したと主張し、 教育委員会は受験生全員を合格させた*50。 2001年、コロンビアナ中学校(アラバマ州)では10人のチアスクアッドに1人の黒人しかおらず、市民権局が両親の不服を調停し、校長がトライアウト参加者31人を全員合格させた*51。 1990年、プレインズフィールド(インディアナ州)のカスケード中学校は希望する全員をチアスクアッドに加入させた*52。 その結果、学校は72人のチアリーダーズ、140人のバンド、229人の合唱団を保有した。 この学校では、全てのスポーツチーム、クラブ、パフォーマンスグループが全ての生徒に開かれた。 チアへの参加はカスケード中学校の生徒達にとって貴重な経験となった。 というのも、ほとんどの生徒は高校でのチア活動に参加できず、なおかつ、チア活動は入学願書や履歴書に書く事ができる実績となるからである。 生徒の一人は言う。「私は来年高校に進学しますが、その学校のチアリーディングスクアッドには入れないと思います。なぜなら、その学校には私よりも良い生徒達が多く在校している事を知っているからです。ただ、少なくともここでチアリーディングを経験する事ができました。この経験は、一生忘れることができないでしょう。*53」
ビショップ博士も全員加入を提言したが、アメリカという国の国民性、ならびに、予算が障壁となり受け入れられていない。 人種差別を解消させるための裁判所の命令を実行するため、ビショップは人種的多様性の欠如を問題としているアメリカ南東部の学校に協力した。 ビショップは学校に対して、ある程度の成績を条件として、チアリーダーになりたい人を全てスクアッドに加入させるよう提言する。 この提言は日本でのやり方と同じである。日本は希望者全員を加入させ、そこから、一軍、二軍を振り分ける。 しかしながら、ビショップの提案はアメリカの国民性と予算という二つの理由により受け入れられなかった。
ビショップの提言を拒絶したアメリカの国民性とは、一神教的価値観に基づく、競争と個人主義の崇拝である。 アメリカは競争と個人主義を賞賛する社会である。競争して誰か一人が総取りするという手法、あるいは、0か1か、白か黒か、 オンかオフか、神か悪魔かという考え方は、一神教的価値観(世界に神は一人だけで、それ以外は全て悪魔とする考え方)に基づいている。 対して、日本は誰もが勝てる考え方を賞賛する。これは多神教的価値観(世界に神は複数存在するという考え方)に基づいている。 一神教的価値観では、一人の神・一人の金持ち・一人の天才、以外は全て悪魔・貧乏人・愚民であるが、多神教的価値観では全員そこそこである。 一人の神が多数の子羊を導くはずだった一神教的価値観は、多数の愚劣な子羊が選挙権を持つ事によって、皮肉な事に、愚劣な神を生むに至った。
ビショップの提言を拒絶した予算とは、活動費や奨学金等、学校がチアに対して支払うカネの不足である。 アメリカと日本ではスポーツの定義が異なる。 アメリカのスポーツとは日本のプロスポーツに近い存在であり、自分ではカネを出さず、他者(スポンサー、奨学金)が支払うカネで競技を行う。 日本のように、競技者が部費としてカネを支払う存在は、アメリカではスポーツではなくレクリエーションと呼ばれる。 アメリカにおけるほとんどのチアはレクリエーションであるが、2003年の時点で250の大学がチアに奨学金を支払っている*54。 また、ルイジアナ州立大学の上級生のチアは授業料の半額が奨学金として支給され*55、ケンタッキー大学のチアスクアッドは授業料が全額免除されている*56。 他者がチアにカネを支払う場合、その数が多くなりすぎると、支払いが困難になって破綻する。
多くの努力により制度上は公平になったが、「元気なポニーテール」というチアの固定概念により、白人以外はチアを辞退するという状況に陥っている。
ウィチタ中学校も人種的に公平なトライアウト制度を整えたが、合格したメンバーの95%が白人で、実情は人種的公平とは程遠い結果となった。 市民権局からの是正勧告を受けたウィチタ中学校は、タンブリングスキルの不公平を解消すべく、2つのチアリーディング準備クラスを開講した。 また、人種による不公平を解消すべく審査員の人種構成を多様なものとし、ポニーテールの可否といった差別的文言もプリントから消えた。 しかしながら、64人のチア準備クラスのうち、マイノリティは15人で、残り49人は白人であった。 トライアウトには34人が参加したがマイノリティは5人だけで黒人はおらず、合格者は19人が白人で残り1人だけがアメリカ先住民(インディアン)であった。 1998年のこの調査は、ウィチタ中学校の機会の平等を目的とした取り組みがまるで効果を上げていない事を意味した。
人種的公平を達成できなかった理由は、「元気なポニーテール」というチアの固定概念であった。 チアリーディングには、元気の良さ、笑顔、ポニーテール、痩せた体型というイメージが関連付けられており、 このイメージはそのまま白人と関連付けられていた。 元気なタンブリングはチア準備クラスで教えられるはずだったが、予算不足により一度も練習されず、個人レッスンに通う白人と差が付いた。 笑顔がチアにとって重要である事は理解されていたが、マイノリティは白人の偽物の笑顔を良く思わなかった。 ポニーテールは髪質によっては難しく、チア専用のウィッグすら発売されている。 白人は、1m58cm、45kgという体型に対し、アメリカ先住民の身長は1m75cmと大柄であった。 チアのイメージとは白人の中産階級(後述のダラスチアにおける「どこにでもいる女子」と同じ)であり、その固定概念から外れたマイノリティは不合格となり、あるいは、他のマイノリティの友達から「白人みたい」と揶揄(やゆ)される事を嫌って自ら辞退した。
固定概念以外に、成績と経済格差の問題もチアトライアウトにはのしかかっている。 ウィチタ中学校では64人のチア準備クラスのうち30人がトライアウトを受験しなかったが、 その大きな理由は、課外活動に必要な平均Cの成績を取る事ができず受験できなかったためである。 また、チア活動に必要な資金や移動手段のめどがつかなかったため、トライアウトに参加しなかった人もいた。 1995年のウィチタ中学校における中学一年生と中学二年生の活動費は年200ドルだった。 しかしながら、1998年には、全国大会に出場する場合のみ、年999ドルに引き上げられた。 これらの問題には、白人とマイノリティの教育格差、ならびに、それらを生み出す経済格差の問題が存在している。
解決できない人種差別問題は、いまだに根本的な解法が見つからないまま現在に至る。 審査員を人種的に多様化させ、タンブリングスキルの不足を補うためにチア準備クラスを設立しても、「チアリーダーのイメージ」のため うまく機能しなかった。 ならば全員加入させてみてはどうかとビショップ博士は提言したが、これもアメリカの国民性と予算不足により実現しなかった。 この状況を打破するために、「チアリーダーのイメージ」の変更をナタリーとパメラは提言している。 イメージの変更とは、「元気、笑顔、ポニーテール、痩せ体型」というチアリーダーのステレオタイプ(偏見)への挑戦である。 チアトライアウトの基準をリーダーシップへと回帰させ、自分達の文化的背景(メキシコ風やアフリカ風)と合致させよ、との意見であった*57。 チアの原点回帰は競技チアであっても模索されているが、いまだ実現せず、トライアウト問題は解決されないままチアに暗い影を落としている。
商業化とはチアリーディングによるカネ儲けである。 チアリーディングはビッグビジネスだ。 1990年、チア団体のナショナル・スピリット・グループは年間収入4,500万ドルを獲得し、1994年には200,000人の高校と大学の チアリーダーズがキャンプに参加し、(他の事業と合算して)6,000万ドルの総収入を獲得した*58。 また、その代表者であるローレンス・ハーキマーは、1970年代、ダラス・カウボーイズのスイートルームを購入していた*59。 そのスイートルームの価格は当時1室100万ドル以上の値段である。 しかも、部屋はむき出しのコンクリートであり、実際に使用するためには、さらに100万ドルをかけて内装を工事する必要があった。 チアで動くカネは年間10億ドル近くになり、不況知らずである*60。 ハーキマーは言う。「不況だからと言って、自分の子供からチア衣装やポンポンを取り上げる事はできるだろうか?*61」 チアの商業的成功の歴史を知るには、その創始者であるハーキマーと後継人であるジェフ・ウエッブの物語を知らなければならない。 二人の物語は、古典的かつ典型的な、アメリカ的資本主義の物語である。
チアクリニック以前のチアビジネスは出版が主であった。 出版された本の内容はほとんどがチアマニュアルといった技術書である。 1927年に出版された初めての技術書により、1869年のプリンストン大学生の叫びによって始まったチア黎明期がようやく終了し、 チアの普及が始まったと言っても過言ではない。 というのも、口伝いに広まっていたチアが、文字という形になり、出版物というメディアに乗って伝播するようになったからである。 1944年、文字だけだった本に写真が追加され、1980年代は教育的ビデオテープが発売されてチアの動きも見る事ができるようになった。 インターネットが普及してからは、写真も動きもより簡単に伝播するようになったが、その一方で、 見た目だけをコピーした浅薄なチアが普及する一因となっている。 活字を読む事とは本質を知る事であり、チアを知るには、目や体だけでなく頭も必要になるのである。
1920年代から1940年代、チア協会が設立される前は出版社からチアマニュアルが多く発売された。 1927年、ジョージ・M.ヨークが「ジャスト・エールズ:チアリーダーズ向けガイド」を出版した。 この本は、大学と高校のチア、コーチ、スポンサーに専門知識を提供するチアマニュアルであり、全米規模で発売された初めての専門書であった。 同年、フランク・A.グラドラは「チアリーディングに関する心理学とテクニック:チアリーダーズのためのハンドブック」を出版した。 こちらはエールリーダーの将来についてのアドバイスと、エールリーダーに求められる品性と態度について書かれていた。 1944年、ローレンス・M.ブリングスが「スクール・エールズ:チアリーダーズのための提案」を出版した。 この本にはチアスクアッドの写真が大量に掲載されており、目でチアを知る事ができるようになった。 1945年、ニュート・ローケンとオーティス・ダイピックの「チアリーディング・アンド・マーチングバンズ」にはタンブリングの連続写真が掲載された。 1948年のブルース・A.ターボルトの「チアリーディングの技術」には、チアの技術だけでなく、学校におけるチア組織の構築方法についても書かれていた。
1950年代以降は、出版社だけでなく、チア協会からも多くの本が出版されるようになった。 1952年に後述するナショナル・チア・アカデミー(NCA)が設立され、こういったチア協会からも「ザ・メガホン」のような雑誌や本が出版されるようになった。 1970年の「チアリーディング・アンド・バトントワリング」には、多くのチアリングテクニックだけでなく、学校関係者やバトントワリングのようなチアリーダーズとよく似た組織の運営方法も書かれている。 1981年の「チアリーディング・イズ・フォーミー」や1994年の「ザ・チアリーダーズガイド・トゥ・ライフ」は、 チアリングテクニックの本ではなく、むしろチアリーダーになりたい人向けの本である。 チアリーダーになる事が難しいアメリカでは、こういった本は珍しくない。 「NFL NBA プロチアリーダーオーディションの秘密」といった、プロチアリーダーになるための本も発売されている。 この本は日本語版も存在しておりAmazon USAで購入可能である。
2019年現在、定期刊行物として「アメリカン・チアリーダー・マガジン」が電子出版で発売されている。 「アメリカン・チアリーダー・マガジン」は1994年に創刊された、高校生、大学生チアリーダー向けの雑誌である。 内容として、良いチアリーダーになる方法、試合でベストなパフォーマンスを引き出す方法、スタンツを習得する方法などが書かれている。 2001年、「アメリカン・チアリーダー・マガジン」と当時発売されていた「アメリカン・チアリーダー・ジュニア・マガジン」は、 合計20万部を発行して100万人の読者を抱えていた。 また、2001年は同時多発テロ事件が発生し、多くの企業が影響を受けた中、同誌を発売する企業は11%の成長を遂げた*62。 現在の同誌はNewsweekのように紙媒体を捨て、電子書籍としてオンライン上で発売されている。
日本の出版物はチアリングテクニックに関する本がほとんどであり、文化としてのチア研究は学術論文としていくつか発表されているだけである。 1989年、エド・後藤と志村邦義が執筆した「チアリーディング入門 : 最新アメリカ・スポーツ チアリーダーのすべて」が 日本で最初のチア専門書である。 この本はそもそもチアとは何かという説明から始まり、チアの効用、医学的効果、歴史、観客の心得が、競技チアの観点から書かれている*63。 以後、一般的な出版社から発売されたチア関係の本は、チア協会や指導者が執筆した、チアテクニックに関する本がほとんどを占める。 また、チア関係における学術論文の多くは傷害に関する論文である。 そんな中、2002年に田村桃子は外見だけをマネた日本のチアの浅薄性を洞察し、論文で次のように書いた。 「『応援団』の付属品として活動を開始した事」がチアの発展を妨げ、「チアの持ち味である『元気良さ』『軽快さ』を拒否し、男性が主導権を持っている雰囲気の中で性的な要素が先立ち、表面的なモノマネとしてのチアとなった。*64」 2015年、増田和香子はチアが内包する「健全と性」の二律背反を突く論文を発表した。 「チアは理想の女性像であり、その女性像には健全と性の二つの相反する役割が課されている。*65」
アメリカのチア書籍は多様であるが、日本のチア書籍の多くは技術書である。また、チア論文の多くは傷害に関する研究である。 そんな中、田村は日本のチアの浅薄性を洞察した論文を発表し、増田はチアの本質は「健全かつセクシー」であると洞察する論文を発表した。
ローレンス・R.ハーキマーとはナショナル・チアリーダーズ・アソシエーション(NCA)の設立者でありチアビジネスの創始者である。 NCAに代表されるチア組織のビジネスモデルはチアクリニック・キャンプの開催とチアグッズの販売だ。 1940年代後期、チアクリニックは中学高校のチアリーダーズが外部講師として大学生チアリーダーズを招待する事から始まった。 これはサム・ヒューストン州立大学(テキサス州)の教授によって手配されたものであり、その大学生講師の中に 南メソジスト大学(テキサス州ダラス)のチアリーダーだったハーキマーがいた。 クリニックにビジネスチャンスを見出したハーキマーはNCAを設立し、通年のクリニックとキャンプを大学に申し出るようになった。 NCAは成長し、高校や短大でもキャンプを提供する。 1972年、「ニューヨーク・タイムズ」誌はハーキマーが500万ドルの総収益を上げたと報告した。 収益は75,000回実施されたキャンプへの参加費用がベースであり、450万ドルを場所代として大学へ支払った*66。 備品も儲かるビジネスである。 チアグッズ一式が最低200ドルであり、1995年において、アメリカでは100万人近い小学生、中学生、高校生、大学生がチアを実施している*67。
ハーキマーは高校と大学のチアを経て体育教師として就職した後、NCAを設立した。 ハーキマーのチアキャリアはノース・ダラス高校(テキサス州)から始まった。 高校でのハーキマーは、当時のチアらしく、体操能力の高さにより知られている存在であった。 メソジスト大学に入学した後、一回生からチアリーダーに就任し、第二次世界大戦中は休学して水兵として二年間従軍した。 復学後、再度チアスクアッドに加入し、1946年にフットボールチームのヘッドチアリーダーに就任した*68。 1948年に卒業した後、南メソジスト大学に体操の教師として雇用され、週末にチアスクアッドをトレーニングするようになった。 学校はローレンスに500ドルの給与か子供一人あたり1ドルの報酬かを選択させ、ローレンスは後者を選んだ。「私はギャンブラーであり、ギャンブルを取った。というのも、子供が来る事はわかっていたからである。」 トレーニングには4,500人の子供が来て、ローレンスは4,500ドルを獲得した*69。 チアトレーニングにビジネスチャンスを見い出したローレンスは南メソジスト大学を退職し、フルタイムでチアビジネスに取り組み始めた。 1953年、600ドルの融資を受け、ローレンスはNCAを設立した*70。
ハーキマーはユニフォームとグッズも自ら製造し販売した。 数年間チアクリニックとキャンプに専念した後、ハーキマーはチアリーディングユニフォームの問題に取り組んだ。 ユニフォームの問題とは、納期の問題である。 一般的に、チアリーダーズは春の終わりに一斉に選ばれる。 その後、6月頃に実施されるキャンプまでにユニフォームが必要になるため、製作が集中して遅れるのである。 そこでハーキマーは編み機を購入し、ダラス郊外の工場を100,000ドルで買収して、自前で製造した。 また、グッズとして、メガホンを製造するために古い牛乳パック工場も買収した*71。 ハーキマーはポンポンも150万組以上販売したが、その過程において、ポンポン(pom-pom)という名前をポンポン(pom-pon)に改めた。 これは、フィリピン、日本、太平洋諸島に駐屯するアメリカ陸軍がポンポン(pom-pom)を性行為を暗喩するスラングとして使用していたからである*72。
ハーキマーはチアーズと著書によってチア文化の確立にも貢献した。 ハーキマーは高校生や大学生時代に自身が披露していたチアーズをクリニックやキャンプで拡大させた。 そのチアーズとは主にジャンプとエールである。 ジャンプは片足を伸ばしもう片足を曲げるハーキージャンプと呼ばれるものであり、日本のチアでも見かける。 エールはペーパーバッグ、スプートニク、スーパーソニックと呼ばれるものであり、定番エールとして続いている。 また、ハーキマーは時代の流行に合わせたチアーズも作った。 例えば1972年にソウルミュージックが流行していた時は、次のようなエールをキャンプで教えていた*73。
偉大なソウル(Super Soul Spirit)を手に入れたソウルのリズムを持ったこのエールは、腕を真っ直ぐに伸ばすチアリーディングの標準のリズムとは異なっていた。 ソウルだけでなく、1940年代に「リズム・ナスティック」が流行すればそれを取り入れ、ジャズが流行すればジャズを、 ヒップホップが流行すればヒップホップをそれぞれ取り入れ、時代に合わせたフォームのチアリーディングを作った。 ハーキマーの著書には、「チャンピオンシップ・チアーズ・アンド・チャント」「ペップ集会スキット・アンド・スタンツ」「ザ・コンプリートブック・オブ・チアリーディング」といったものがある。
ハーキマーはチアリーディングの父であり、クリニック、キャンプ、グッズによってチアビジネスを確立させた。 今では定番となったチアーズを考案しただけでなく、時代の流行を取り入れて改良した。
ジェフ・ウエッブとは、パフォーマンスにエンターテインメント性を追加した、近代チアリーディングの父である。 1971年、大学を卒業したジェフはハーキマーの下で働き始め、その6ヶ月後にゼネラルマネージャーとして副社長に昇進した。 ジェフには日々の業務をこなす適性があったが、25歳を超えていたハーキマーと若いジェフには目的に違いがあった。 ハーキマーの目的は人々の指導者となり得るリーダーの育成であり、チアリーダーの原義とも言える(比較的)崇高なものであった。 しかしながら、ジェフの目的はチアリーディングの大衆化であり、誰でも簡単に楽しめるチアリーディングを目指した。 その動機はカネである。 人を賢くさせるのではなく、人を愚かにさせる事によってのカネ儲けは、アメリカ的資本主義の特徴である。 薬(教育)ではなく毒(娯楽)、平和(民需品)より戦争(軍需品)、賢く難しいチアリーダーより愚かで簡単なチアリーダーの方が儲かるのである。 「誰でも(エリートでなくとも)」「簡単」「楽しい」が大衆化のキーワードであり、それを体現したものがエンターテインメントであり、それこそが近代チアリーディングである。
ハーキマーの(比較的)崇高な方針を見限ったジェフはNCAを退社し、ユニバーサル・チアリーダーズ・アソシエイション(UCA)を設立した。 ジェフはNCAの退社理由を次のように話す。 「チアリーディングに近代的要素を導入する事には本当に抵抗があった。チアリーダーズを俯瞰すると、子供達が変化し、その子供達に対して必要なものを供給できていない事がわかった。それゆえ、私は自分でやる事に決めたのだ*75。」 要するに、子供達は「誰でも」「簡単」「楽しい」チアリーディングを求めるよう変化しているが、 チアリーディングを(比較的)崇高な教育の一環であると考えるハーキマーが大衆化を許さないため、自分で提供しようとジェフは考えたのである。 1974年、ジェフは12人のインストラクターを引き抜いてNCAを退社し、UCAを設立した。
ジェフによるエンターテインメント化されたチアリーディングは成功し、近代チアリーディングが完成した。 ジェフがインストラクターと共に退社した時、ハーキマーは「教師」ではなく「曲芸師」を引き抜いたとジェフを非難した*76。 引きぬかれたインストラクターの一人でジェフの兄でもあるグレッグ・ウエッブはUCAについて次のように語った。 「NCAを退社する前、我々がしていたスタンツは、ショルダースタンド(逆立ちの一種。仰向けの状態から足を持ち上げて両手で支える)程度であった。そのレベルのスタンツを、我々と共に退社した、体操の代表選手兼アイオワ大学トランポリン選手であるギルモア・ウィリアムズが、三つのステップで体操のように見せるべく進化させた。現在の女子が実施しているそういったスタンツのルーツは、おそらく、1975年までさかのぼる。*77」 同じく、インストラクターの一人であったクライン・ボイドは次のように語った。 「チアリーディングを、より運動的、より体操的にすれば、より多くの人達を取り込めるのではないかと我々は考えた。我々はそれを実現するためのより良い方法も考えた。会社に残った人達は何かを間違えていたわけではないが、進歩する心構えができていなかった。ジェフはチアリーディングを進歩させるために必要な原動力や才能といった偉大なエネルギーを持っており、多くの人達を魅了した*78。」 ハーキマーの言う「曲芸師」達はチアリーディングのアスリート的側面とエンターテインメント的側面を強調し、 「誰でも」「簡単」「楽しい」という、近代チアリーディングを完成させた。
ジェフはユニフォームも近代化させ、チアのテレビ放映も始めた。 1979年、ジェフと8人の投資家が、ユニフォーム、チアキャンプ用のアパレル、アクセサリー、チア用品を販売する会社を立ち上げた。 この会社を立ち上げた理由は、アスリート的側面とエンターテインメント的側面を強調した、近代的チアリーディングにふさわしいユニフォームを チアキャンプの参加者が求めたためである。 ジェフは言う。「昔からの2〜3社がユニフォームビジネスに従事していたが、毎年同じユニフォームがカタログに掲載されていた。それだけでなく、配送も悪く、商品の品質もひどかった。*79」 これにより、タンブリング、ビルディング、スタンツを実施しても裂ける事のない運動機能性と、エンターテイナーにふさわしいシャープな外観を 持ったチアリーディングユニフォームが完成した。 1983年、スポーツとしてもエンターテインメントとしても見栄えのする存在となった近代チアリーディングの大会を、 ジェフはESPN(スポーツ専門テレビ局)で全国放送させた*80。
ハーキマーがチアリーディングの父なら、ジェフはチアリーディングの恩知らずな息子である。 ビカビカ光るライト、大音量の音楽によりチアを近代化させたが、リーダーシップというチアの原義的な意味は失われた。
チアキャンプはエリートだけが参加できる厳しいトレーニングから徐々に多様化し、リゾート地でのキャンプといった、 「誰でも」「簡単」「楽しい」大衆化されたキャンプへと進化した。 チアキャンプとは集中して実施するチアトレーニングであり、宿泊や日帰りで実施される。 1949年、軍隊帰りのビル・ホランが主催したキャンプは非常に厳しいものであった。 1952年、ハーキマーがNCAを設立し、キャンプでチアリングの個人指導、スタンツ、ポンポンルーティーン、大衆心理学の講義を実施した。 1970年代になると女性チアリーダーズの増加によってチアの権威と人気が衰え、生徒を獲得すべく競技チアが生み出され、 キャンプにおいてもテクニックの学習が中心となった。 その後チアキャンプは多様化し、学習要素だけでなく、参加者達が友情を確かめ合う場にもなっている。
初期のチアキャンプは軍隊のキャンプ(駐屯地)で実施されているような非常に厳しいトレーニングであった。 1949年、ビル・ホランがハーキマーのNCAに先駆けてアメリカン・チアリーダーズ・アソシエーション(ACA)を設立した。 ホランはマイアミ大学ペップスクアッドの出身であり、第二次世界大戦ではパラシュート部隊に所属していた。 パラシュート部隊とは、敵の支配地域の奥深くに単身でパラシュート降下する、非常に危険な部隊である。 それゆえ訓練も厳しいものであり、ホランはその厳しさでチアリーダーズをトレーニングした。
「ランチでフォークを落とした女、お前は10分間の追加エクササイズだ。そしてお前、お前はチューインガムを噛んでるな?」ホランは言う。「本物の兵隊から腑抜けたクラゲを分離する。ほとんどの女子は自らのリーダーシップを引き出す事を恐れている。しかしながら、私のキャンプに参加した女子は、すでにリーダーシップを獲得し、クールダウンのランニングをキャンパスで実施している。*81」 このようなホランを「ライフ」誌は「チアリーディングにおける神秘と実践の馬上巡回福音伝道者」と紹介した*82。 馬上巡回福音伝道者とは、馬に乗ってキリスト教の教えを伝えて回る神父の事である。 その任地は教会がない辺境であり、この記事はチアが必要とする福音(神の教え)をホランがもたらしていると書いている。
チアキャンプはハーキマーが標準化し、ジェフがエンターテインメント化させた。 ホランのチアキャンプは持久走もあった本格的な新兵訓練トレーニングであったが、 1952年のハーキマーのNCAは、チアリングの個人指導、スタンツ、ポンポンルーティーン、大衆心理学を教え、標準的なものとなった。 1970年代になってチアの権威が衰え、生徒確保のために競技チアが誕生し、確保した生徒を喜ばせるためのエンターテインメント化が進んだ。 エンターテインメント化されたチアキャンプは、参加したチア達を熱狂させる事から始まる。 アラバマ州のキャンプでは、司会者が「ハロー、アラバマ」と叫び「君達はテニスキャンプに参加しているのかね?さあ、チアリーディングキャンプを始めよう。」と煽り立て、大音量で音楽がかかる中マスコットが会場に乱入し、水鉄砲でチアに水をかける。 キャンプではサイドラインでのチアーズ、2つのダンスルーティーン、基本的なスタンツ技術、地元で実施されているチアーズが教えられた。 最終日の発表会では他のチームに対してホーム会場以上の大声でレスポンスをし、授賞式では誰もが抱きあい、「来年また会いましょう。」と 友情を確かめ合いながら別れ、近代のエンターテインメント化したチアキャンプは終了する*83。
エンターテインメント化したチアキャンプだけでなく、現在は多様なチアキャンプが存在している。 アメリカには数多くのチア団体が存在している。 同業者が多数存在する場合、他と差別化するため、なんらかの特色を出す。 例えば「遊園地」と呼ばれていたアミューズメントは、現在なんらかのテーマを持った「テーマパーク」と呼ばれ、差別化されている。 チアにおいておいても、クリスチャン・チアリーダーズ・オブ・アメリカは「ピラミッドを建てる前に人を建てる」と、人間形成を主張する*84。 またザ・フェローシップ・オブ・クリスチャン・チアリーダーズは、「この国ではチアリーダーズ1人あたりのインストラクターの数が少ない!*85」と主張し、20人のチアリーダーズごとに1人のインストラクターを割り当てている。 アトランティック・チア・アンド・ダンスは 「我々は最もタフなアスリートへのトレーニングを目的としている。それゆえ、困難に挑戦する事をいとわない勇敢なチアリーダーズとダンサーズの参加を推奨している。*86」と、ホランのような軍隊形式のキャンプを提供する。 また、リゾートキャンプと呼ばれるものも存在し、リゾート地の豪華なホテルに滞在して、ビーチへ行ったり、ハイキングへ行ったり、 緩いカリキュラムのチアをしたりする。 チアリーダーズだけでなく、1988年に設立されたチアLtd.はチアコーチ向けに特化したキャンプを提供している。
チア企業にとってキャンプや大会はスポンサー費用を獲得したりユニフォームやグッズを販売するチャンスであり、むしろそちらが主要な収入源である。 キャンプや大会といったスペシャルイベントには協賛企業が付く。その企業は、チックフィレイ(レストランチェーン)、 AT&T(通信企業)、ジレット(カミソリ販売業)、クレアーズ(アクセサリー販売業)と多様である。 シャンプー販売業のサーマシルクは40,000人のチアリーダーに113グラム(合計4.5トン)の試供品を配布し、 他の企業もチアリーダーをターゲットとした新商品やアイディアをテストしている*87。 日本のチア大会「B.LEAGUE WEST CHEER FESTIVAL 2019」ではサン・クロレラ(健康食品会社)が冠スポンサーとなり、 イトマンスイミングスクール、グンゼスポーツ南草津レイクブルー(フィットネス)、崎山組(排水管工事)、マコトホーム(住宅業)、 らくピカ(ハウスクリーニング)、ワコール(女性下着)、ピクロ(写真販売)、POMCHE(チアアパレル)、きずな薬局、 リビングアンドヘルス(生活雑貨)、県民共済(保険)、Rim(ヘアサロン)、叶匠寿庵(和菓子)、マイナビ(就職情報)、 びわ湖花街道(ホテル)、ごはん屋(惣菜)、青地うえだクリニック(医院)、Bb(ダンススタジオ)、 ZENITH(自動車販売)、スマイル&マインド(保険代理)、ホテルニューオウミが協賛した。 ロビーにおいてPOMCHEはグッズを販売し、ワコールはスポーツ衣料の講義をした。 チアには、ユニフォーム、アパレル、リボンといったグッズが必要であり、ユニフォームだけでも250ドル以上の値段がする。 Tシャツ、ショーツ、バッグといったチアキャンプ衣料は、チア企業だけでなく、トゥィーン・ブランズ(子供服)、J.C.ペニー(百貨店)、 シアーズ(電気量販店)も参入して販売している。
その他チアリーディング専門企業が独自のビジネスを展開したり、チアとはあまり関係のない物品もチアグッズとして販売されている。 独自の専門企業として、チア・カールズ・エクスプレスはチアリーダー専用の人工カスタムウィッグを販売している。 この企業に自分の髪を少しだけ切って送付すると、自分の髪色と質感を持ち「チアスクアッドとして統一できる」ウィッグを38ドルで購入する事ができる*88。 その他、コンピュータゲーム、キッズ向け大学チアユニフォーム、せっけん、冷凍クッキー生地、ろうそく、ナッツ、トートバッグ、ぬいぐるみ、花の球根、豚肩ロース肉がチアグッズとして販売されている*89。
チアキャンプはハーキマーが標準化し、ジェフがエンターテインメント化させた。 チアキャンプは多様であり、軍隊式からリゾート地でのキャンプまで揃っている。 チア企業におけるキャンプや大会での主な収入源はスポンサー費用やグッズ販売であり、多くの協賛企業がついている。
トライアウトと商業的チアの制度化によりチアが完成し、様々なスクアッドを派生させ、世界各国やエロチックな分野にも拡大した。 チアの従来のイメージとは「元気、笑顔、ポニーテール、痩せ体型」であるが、それとは異なる急進的チア、ゲイとレズビアンのチア、 シルバーチアが派生した。 またチアリーダー(応援を導く人)なのに応援を一切実施しない競技チアも、従来のイメージを覆すチアの一つである。 アメリカで発祥したチアは、各国の事情に合わせながら、日本やヨーロッパへと拡大した。 さらに、性の対象としてエロチックな分野にも広がった。
チアの従来のイメージとは「元気、笑顔、ポニーテール、痩せ体型」であるが、それにこだわらないチアリーダーズが派生した。 そのチアリーダーズとは、競技チア、男性のチア、急進的チア、ゲイとレズビアンのチア、シルバーチアである。 競技チアとはスポーツとして競争するチアであり、チアは応援するものという概念を覆している。 男性のチアは男性によるチアリーディングであり、チアは女性のものという概念を覆している。 急進的チアとは急進的な政治的メッセージを発信するチアリーダーズであり、チアの応援という受け身の概念を覆している。 ゲイとレズビアンのチアとは同性愛者のチアリーダーズであり、チアは女性のものという概念を覆している。 シルバーチアとは高齢者によるチアであり、チアは若者であるという概念を覆している。
競技チアとは、誰も応援しない、スポーツとしてのチアリーディングである。 チアリング(cheering)とは応援(cheer)の動名詞であり、「サポートしたり、元気づけたり、賛美するために、大きな声で叫ぶ事」という意味である*90。 チアリングなのに応援しないとは、スイミングなのに水泳しないとほぼ同義である。 しかしながら、陸上で手足をバタバタさせる水泳とは異なり、誰も応援しないチアは一つのジャンルとして確立している。 誰も応援しない競技チアはスポーツの一種であり、地方大会、全国大会において激しい競争が繰り広げられている。 競技は運動量の多い2分30秒のルーティーンにより実施され、ダンス、スタンツ、ピラミッドが含まれる。 ルーティーンにはチアリングも含まれるが、特定のチームを応援しているわけではなく、なおかつ、必須でもない。 競技チアは全米で毎年数百の大会が開催され、全米州立高校協会の大会に参加した数だけでも、1997-98年度は59,000人であった*91。
競技チアは男女同権時代の新しいチアであり、女性が男性同様に運動能力を誇示し、アスリートとして戦うために生まれた。 チアになりたい女子はたくさん存在するが、学校のチアの枠は限られており、全ての女子がチアになれるわけではない。 一方、女性化によってチアのイメージが失墜し、男性向けチアキャンプを提供していたチア企業は閉鎖の危機に見舞われた。 チアになりたい女子と生徒を獲得したい企業のニーズが一致し、最初、企業はチアの受験対策を女子に供給した。 しかしながら、企業は自分達でチアスクアッドを作った方がさらに生徒を獲得できる事に気付き、タイトルIX後の女性にふさわしい、 アクロバット・運動能力・ショーを融合させた新しいチアリーディングを再構築した*92。 激しい動きと早い音楽を伴うダンスがチアキャンプで強調され、学校のチアにも影響した。 1970年代以前の投票で決定されていたチアは「エンターテイナー」であったが、トライアウトが運動能力で競われるようになり、「アスリート」となる。 アスリート達はキャンプや大会で技を競い合い、応援せず戦うことに特化した、競技チアが誕生した。
競技チアは自分のための純粋なスポーツであり、他者のための伝統的チアリーダーズの義務はほとんど履行しない。 競技チアの魅力はスポーツとして純化された競技性にあり、応援活動とは違って、勝ち負けが明確に示される点にある。 競技チアの一人、エイミー・アーゲットシンガーは次のように言う。「こういった新しいスクアッドは、より自由になった、新世代女子の闘争本能を単に満たすためだけに存在します。*93」 また、学校チアを辞め競技チアに転向したジェニファー・カランサは言う。 「競技チアリーダーズはフレーフレー応援団に分類してほしくないと考えています。全力を出し切る事により、競技チアに男性向けスポーツと同程度の厳しさが存在する事を示しているのです。*94」 スポーツとして純粋であるがゆえ、選手のために実施してきた伝統的活動の数々(プラカードの作成、選手に配布するお菓子の用意、体育館の飾り付け)を競技チアは何も行わない*95。 それどころか、1974年、ロックビル(メリーランド州)のロバート・ピアリー高校ポンポンスクアッドは、競技大会のドレスリハーサル(本番の衣装を着用して実施する最終リハーサル)として、自校のフットボール試合に出演する計画を立てた*96。 1988年、コマースシティ(コロラド州)のアダムスシティ高校は、レスリングの試合と大会の練習時間が重なった時、レスリングの応援でなく大会の練習を優先させた*97。 スポーツの主役は自分自身であり、それゆえ、スポーツとしてのチアは自分を優先させている。
男性のチアとは競技チアに取り組む男性チアリーダーであり、その多くは元フットボール選手である。 1994年、213人の男子競技チアリーダーズが競技大会に参加し、その数は2000年には1,212人に増加した*98。 こういった男子は高校でチアリーダーズに加入し、なおかつ、フットボールの選手でもあった*99。 これは驚くに値しない事実である。 というのも、アメリカという国を女性というレンズで見ればチアリーダーになり、男性というレンズで見ればフットボールになるからだ。 見ているレンズが異なるだけでその本質は同じであり、光の正体が波であり粒でもあるのと同様に、 チアリーダーとフットボールは同じ場所に同時に存在するのである。 2001年のUCA国際大会で優勝した、テキサス州ダラスのチア・アスレチック・スクアッドに所属する、ジョン・リュスは言う。 「チアリングを女々しいと考えるのならば、実際にやってみると良い。*100」
急進的チアとはチアリーディングを使って政治的なメッセージを発信するチアリーダーズである。 チアリーディングの本質とはサポートであり、その本義はアスリートのサポートである。 これは日本のチアスクアッドであるRFCの「がんばるあなたを応援したい!」というスローガンが体現しており、「あなた」が主であり「チア」は従である。 急進的チアはこの伝統的主従関係が逆であり、チアが「主」として「従」に相当する人々にメッセージを主体的に発信する。 急進的チアが発信するメッセージは、環境問題、グローバリゼーション、戦争の脅威、家父長制社会の問題、同性愛者に対する嫌悪の問題といった、政治的なメッセージである。
知らなかった事を聞いたチアリングを用いた政治的なメッセージの発信は1960年代から始まった。 1960年代、カリフォルニア大学バークレー校のヘッドエールリーダーだったジェフ・ソコルはベトナム戦争反対派の一員であり長髪だった*101。 ジェフはピースサインが描かれたセーターを衣装に採用し、反戦歌をチアリングに組み込んだ。 「戦争をやめろ、戦争をやめろ」「爆弾禁止」といった応援コールを使用したが、社交クラブによるリコール嘆願書によって辞めさせられた。 「観客の好戦性をスクールスピリットから平和運動といった他の価値あるものへと容易に変換できると思った。しかしながら、観客の好戦性は私に向けられた。*102」 1965年、カリフォルニア大学ロサンゼルス校のヘッドエールリーダーに当選した黒人のエディー・アンダーソンは、 人種差別反対と反戦のメッセージを観客へ届けるために、ビル・ヘイリーの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」を 「ボム(爆弾)・アラウンド・ザ・クロック」と替え歌にして歌った。 エディは自身が白人女性とダンスを踊った事を非難されると、次のように答えた。 「普段彼女の声は聞こえるのに、彼女がホワイトシート(教会でざんげする時に着用する白衣)を着ると、彼女が何を言っているのか聞こえない。*103」
現代の急進的チアリーダーズは、抗議活動にちょっとした楽しさを加えるために実施されている。 1996年、サラサータ(フロリダ州)で開かれた青年解放会議にジェニングス家の三姉妹(エーメ、カラ、コリーン)が参加した。 姉妹はありがちな伝統的抗議によって人々が関心を失わないよう、ちょっとした楽しいチラシを配布した。 そのチラシには、チアリーダーズのような衣装を着てゴミ袋から作ったポンポンを持った、三姉妹の姿が掲載されていた。 姉妹により始められた急進的チアリーディングは、伝統的チアリーダーズと同様に、応援コールを叫び、スタンツを披露し、ダンスを踊り、歌を歌った。 これにより、急進的活動にあまり乗り気でない人達の興味を集める事に成功した。 トロント急進的チアリーディングスクアッドのメンバーであるレイチェル・エングラー・ストリンガーは次のように言う。 「急進的チアリーディングは本当に楽しかったです。というのも、急進的な活動家ではない組合の人達も多く集まったからです。組合の人達は地元の人達と一緒に行進していました。私達はその行進の先頭まで走り、地元の人達のために個別のチアを披露して、多くの人達に喜ばれました。それだけでなく、私達も行進に加わり、沿道の人達にもチアを披露しました。*104」
ゲイとレズビアンのチアとは、女性は女性らしく男性は男性らしくという、性的束縛に対抗するチアリーダーズである。 現代のチアはほぼ女性の活動であり、誰かを応援するミニスカートの女子は、まさに女性らしさそのものを体現している。 一方で、この体現は「女子はミニスカートをはいて誰かを応援しなければならない。」「ミニスカートをはいて応援する人は女子である。」との 性的束縛とも言える。 ゲイやレズのカミング・アウトは、そういった性的束縛からの解放とも言えよう。 1980年、ゲイをカミング・アウトした5人のメンバーによって構成された、恐らく世界初のプロフェッショナル・チアリーダーズが誕生した。 ヘイワード・ロー・フレーズと名付けられたこのスクアッドは、その後チア・サンフランシスコと名前を変え、ストレート、ゲイ、レズビアンのメンバーを歓迎している。 1999年、スクアッドは非営利団体となり、HIVと癌患者のケアを支援する、チア・フォー・ライフ基金を設立した*105。
チア・サンフランシスコは、大統領就任式パレード、NBAに出演し、通常のチアキャンプにも参加して、好評を博している。 1997年、チア・サンフランシスコはクリントン大統領の就任パレードに参加した。 クリントンは、共和党と比較して、ゲイやレズビアンに理解のある民主党の政治家であった。 2000年、NBAのゴールデンステート・ウォリアーズとデンバー・ナゲッツの試合に参加し、試合前にパフォーマンスを披露した。 また、ゲイの大会だけでなく、通常のチアキャンプにも招待されて参加した。 その時の様子をキャプテンのスティーブは次のように語っている。 「我々がそういった場所に入ると、最初人々は我々を横目でチラチラと見るが、帰る頃には誰もが我々と一緒に写真を取るようになる。最初は良く思われなくとも、最後には愛されるのだ。*106」
シルバーチアとは、55歳以上の年齢制限がある、高齢者によるチアリーダーズである。 チアリーディングのイメージが若者と結びついている理由は、チアリーダーズの運動能力の高さにある。 ダンスにせよタンブリングにせよ、動く事とは生きる事であり、生きる事とはすなわち若さである。 この若さのイメージに反している存在が、高齢者により結成されたシルバーチアだ。 シルバーチアの一つであるウィルミントン・ゴールデンポンポンチアリーダーズ(ノースカロライナ州)は、 55歳以上の年齢制限があるだけで、三角倒立やピラミッドもパフォーマンスとして披露するチアスクアッドである。 年齢での判断が誤りであって、ポンポンを持っている限り、そのチアリーダーズは若いと言えるのかもしれない。
シルバーチアは、自身も楽しみ、観客も楽しませ、人生の最期までチアリーダーとなり得る存在である。 1985年、ウィルミントン市が高齢者向けチアリーディング活動を立ち上げ、7人の女性が参加した。 最初のパフォーマンスは高齢者向けスポーツ大会のオープニングセレモニーであり、運動が制限されているメンバーから、側転、スプリット、後屈、三角倒立を披露するメンバーまで揃った。 1986年、チア経験者がコーチに就任し、より伝統的スタイルとなって、ポンポンルーティーン、スタンツ、ピラミッドを披露した。 スクアッドは、パフォーマンス中に転倒してしまっても、観客を沸かせた。 1992年にはメンバー数が15人まで増加し、1993年のノースカロライナ州シニア競技大会で優勝した*107。 メンバーの多くは50年前からチアになりたかった人達であり、夢がかなったとエベリン・テイラは言った。 「若い頃、足が太すぎると言われてスクアッドのオーディションに落ちました。最終的に、チアリーダーになるという生涯の夢を実現する事ができ、私は興奮しています。」 その後エベリンは亡くなったが、本人の遺言通り、チアリーディングユニフォームを着た姿で埋葬された*108。
パフォーマンスだけでなく、高校で実際に応援活動をしたシルバーチアもいた。 女子高生にとってチアリーディングは花型中の花型であり、誰もが憧れ、誰もがなりたい存在である。 1983年、人口847人のヘドリッチ高校(アイオワ州)のバスケットボール大会に、女子高生のチアリーダーズではなく、6人の高齢者のチアリーダーズが現れた。 この学校にも23人の女子生徒が在籍していたが、スクールスピリットを引き出すため、チアリーディングでなくバスケットボールのプレイを選択した*109。 そのため、試合でのチアリングをリードするため、地域住民は6人の高齢女性を雇用してチアスクアッドを構築した。 翌年度も女子生徒のチアが現れなかったため、このチアスクアッドは継続して活動している。 なお、この学校のストーリーは「勝利への旅立ち(1987)」として映画化された。
チアリーディングが完成した後、チアのイメージにこだわらないチアスクアッドが派生した。 競技チア、男性のチア、急進的チア、ゲイとレズビアンのチア、シルバーチアの共通点はもはやチア衣装とポンポンしかない。
完成されたチアは世界に拡大した。 その上で、アメリカ、日本、ヨーロッパのチアに違いが見られるようになった。 その違いはスポンサーの有無と統一機関の有無である。 スポンサーとはチアを実施する上でのカネのでどころであり、他人がカネを出す(スポーツ)か、自分でカネを出す(レクリエーション)かの違いである。 統一機関とは日本サッカー協会のように国内のチアを総括する一つの団体である。 これが存在しないアメリカと日本のチアには統一された安全基準とガイドラインも存在せず、選手は危険な状態でチアに取り組んでいる。 この状況を解決するヒントは啐啄(そったく)であり、内圧と外圧による改革が必要である。
チアリーディングは世界50ヶ国以上に広がっている。 チアリーディングスクアッドが存在する国は、アメリカ、日本、ロシア、ウクライナ、フランス、スウェーデン、ノルウェー、ドイツ、スイス、フィンランド、スコットランド、イングランド、アイルランド、ウェールズ、マレーシア、シンガポール、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、コスタリカ、エクアドル、ボリビア、ペルー、チリ、メキシコ、カナダ、プエルトリコ等である*110。 スウェーデンでは、カルマル大学の男子学生がフットボールチームを立ち上げた時、女子がチアリーディングスクアッドを立ち上げた。 カタリナ・エリクソンはチアは性差別的だと考えたが、一度参加するとチアに夢中になったと言う。 カタリナは日本の競技チアと共に週30時間の練習を二学期間実施し、ヨーロッパ大会で二つの銀賞を獲得した。 32歳になったカタリナはその後スウェーデン・チアリーディング連盟の副会長兼コーチに就任している*111。 各国で、地域、国内、国際大会が開催され、ヨーロッパで開催された国際大会には10カ国から1,661名のチアが参加した。 2002年にスコットランドで開催された国際大会には7カ国から50以上のスクアッドが参加し、メキシコのアカプルコで開催されている国際大会には 毎年ラテンアメリカ諸国から何千ものチアリーダーズが集合する*112。
チアにおける、アメリカ、日本、ヨーロッパの違いは、スポンサーの有無と統一機関の有無である。 米の学校チアにはスポンサーが存在するが、日欧のチアにはスポンサーが存在しない。 スポンサーの有無は米と日欧におけるスポーツの定義の違いに起因する。 欧には統一されたチア機関が存在するが、日米には統一されたチア機関は存在しない。 欧のチア機関における最優先事項が安全であるのに対し、日米のチア機関における最優先事項はカネである。
米の学校チアにはスポンサーが存在し、他人のカネでチアを実施するが、日欧のチアにはスポンサーが存在せず、自分のカネでチアを実施する。 米におけるスポーツは日欧におけるプロスポーツとよく似ており、スポンサーがカネを出し、競技者はカネを出さない。 それゆえ、米における学校スポーツは学校自身がカネを出し、競技者はカネを出さない。 学校がカネを出す理由は、甲子園優勝を目指す野球部のように、チアが学校を代表しているからである。 一方、米であっても学校を代表していないチアにはスポンサーはない。 例えば、オールスターチアリーダーズと呼ばれる民間のスポーツ組織に所属するチアは、日欧同様に自分でカネを出す (このような形態はスポーツではなくレクリエーションと呼ばれる)。 日欧のチアは学校でも民間でもスポンサーが存在せず、米的に区分すれば、いずれも自分のカネでチアを実施するレクリエーションである。
欧には統一されたチア機関が存在するが、日米には統一されたチア機関は存在しない。 統一機関とは日本サッカー連盟のように、関係者の全てが所属している、国ごとに一つだけの統治組織である。 1984年、統一機関としてイギリスにブリティッシュ・チアリーディング・アソシエイション(BCA)が設立され*113、1995年にはスウェーデンにもスウェーデン・チアリーダー・フェデレーション(SCF)が設立された。 この二つを含めた欧の統一機関の優先事項は、安全基準の構築とガイドラインによる徹底である*114。 一方、日米には統一機関がなく、各チア団体によるカネ儲けが優先され、競技大会における統一的安全基準もなければガイドラインもバラバラである。 また、欧には指導者に対する統一的基準もあり、児童や青少年との仕事に適切かどうか、犯罪記録管理局による証明もしなければならない*115。 BCA会長のボブ・キラルフィーは米(日も)の怠慢を深刻な問題であると厳しく批判する。 「残念だが、アメリカにはまだ統一機関がなく、我々と共に仕事をする事ができそうにないチア企業による競争的自由市場となっている。我々はこの状態を極めて奇妙だと感じている。*116」
日米における統一機関なしという状況を変えるヒントは、啐啄(そったく)にある。 啐啄とは、内的要因と外的要因の二つが同時に揃う事をきっかけとして発生する、新しい時代が生まれる環境である。 啐とは生まれてくる雛が卵を内側から破ろうとする力であり、啄とは親鳥が卵を外側から破ろうとする力である。 これは、新しい時代が生まれるには、内側から働きかける力と、外側から働きかける力の両方が必要である事を意味する。 日米において統一機関を作るには、統一しなければならないという内側の力と、統一せよという外側の力の両方が同時に揃う必要がある。 内側と外側の両方が同時に揃うタイミングとは、例えばチアがオリンピック競技となり「統一しないと出場できない」といったタイミングである。
チアは世界に広がった。 その拡大と共にチアは進化し、ヨーロッパで統一機関が設立された。 統一機関によって安全基準が統一され、競技者は大会ごとに異なる安全基準に準拠しなくても済むようになり、チアの安全性が増した。 一方、アメリカと日本では依然として各チア団体がバラバラに好き勝手をしているという、遅れた状況にある。 選手の安全よりもカネを優先させているこの状況は、厳しく非難されなければならない。
エロチックチアとは性の対象としてのチアリーダーズである。 エロチックチアは男の夢を具現化した存在として、映画、書籍、都市伝説に登場する。 映画に登場するチアの代表はダラス・カウボーイズ(NFL)に訴えられた「デビー・ダズ・ダラス(1979)」である。 この映画にはダラス・カウボーイズ・チアリーダーズによく似た衣装が登場する。 チアに関するエロチックな書籍はあふれており、例えばアマゾンジャパンを「cheerleader」で検索すると、上位22%がエロチックな書籍である。 「尻軽女のチアリーダー」と呼ばれる都市伝説がミネソタ大学にある。 この都市伝説に登場するチアリーダーは、スポーツ選手に対して性的な関係(主に口淫)を自発的に持ちたがる。
エロチックチア映画に登場するチアリーダーズは、現実にはあり得ない、男の夢と妄想を描いている。 「ザ・チアリーダーズ(1972)」「ザ・ポンポンガールズ(1976)」「チアリーダーズ・ワイルドウィークエンド(1985)」といったB級映画に 登場するチアリーダーズは、試合中に短いスカートをはいて激しいパフォーマンスを披露する。 さらに、試合以外の普段の生活においても、なぜかチアリーディングユニフォームを着用している。 普通の服を着用しているシーンはほとんどなく、チアユニフォームを着用していない場合、チアリーダーズは全裸である。 これは学校で極端に短いスカートの制服を着用する一般的なアダルト作品と同じであり、非現実的な男の夢と妄想を描き、映像として提供している。
エロチックチア映画の代表は「デビー・ダズ・ダラス」であり、本家ダラス・カウボーイズにも訴えられた。 「デビー・ダズ・ダラス」とは1978年に公開されたポルノ映画であり、2002年にオフ・ブロードウェイで舞台化もされた。 筋書きは、高校チアのキャプテンを務めるデビーと他のメンバーが、ダラスで実施されるチアトライアウトに参加するために、 スポーツ用品店やテニスコートでセクシーにアルバイトをするという話だ。 スポーツ用品店において、アメフト男とダラスチアによく似た衣装を着た女がセックスをする。 セックスで男が射精した後、「タッチダウン!」という字幕が表示される。 これを見たダラス・カウボーイズが激怒して訴訟を起こした。 訴訟の結果、衣装は映画から削除され、映画配給元は上映を中止した。 しかしながら、男達の性的欲求を煽り続け、手が付けられない怪物にまでに育て上げたのは、 原告席に座っていたダラスチアその人であった*117。
アマゾンジャパンで販売する洋書の上位22%がエロチックな書籍であり、しかもそれらは氷山の一角に過ぎない。 2018/12/21にアマゾンジャパンの洋書部門にて「cheerleader」で「アマゾンおすすめ商品」を検索し、上位100件を調査した。 その結果、22%が性に関する書籍であった。その他は、恋愛小説、子供向け本、ハウツー本、NFLカレンダー、単なるノートである。 この検索結果は下位に行くほど性に関する書籍の割り合いが増加し、上位400以降はほとんどが性に関する書籍となった。 この調査結果が意味するものは、書店の「チアリーダーコーナー」の22%にエロチックな本が平積みされており、 それらの本の下をめくっても、ほとんどがエロチックな本で構成されているという状況である。 アマゾンで販売するチア本の総数は不明であるが、大多数がエロ本であり、検索で現れたエロ以外の78%の本は実は少数だと考える。
エロチックチアは「尻軽女のチアリーダー」と呼ばれる都市伝説の一つとしても登場する。 ミネソタ大学に伝わるこの都市伝説には29ものバリエーションが存在するが、基本的なストーリーは次のとおりである。 「スポーツチームの選手に対して性的な関係(主に口淫)を自発的に持ちたがるチアリーダーがいる。 体調を崩したそのチアは病院に駆け込み、医者が胃から大量の精液を排出させる*118。」 このストーリーの要点は、男を避ける健全な女子の代表であるはずのチアリーダーが、密かに不健全な性行為を働く点にある。 このギャップが男性を性的に興奮させるため、女教師、委員長、新妻、チアリーダーといった、身が堅い女子でしか成立しないストーリーである。 1970年代の女性運動の時期に生まれたこのストーリーを、ゲーリー・アラン・フィンは次のように述べている。 「自由化した性的渇望による自業自得として、以前は従属的だった若い女性を描いている。これは、性的に受動的だった女性における伝統的な役割の変化である。思春期の男性によるこの都市伝説は、現状の正当性と、性的に開かれた女性への性的渇望を同時に表現している。*119」
チアは従来のイメージを覆すスクアッドを派生させ、世界各国やエロチックな分野にも拡大した。 チアの従来のイメージとは「元気、笑顔、ポニーテール、痩せ体型」であるが、それとは異なる急進的チア、ゲイとレズビアンのチア、 シルバーチアが派生した。 またチアリーダー(応援を導く人)なのに応援を一切実施しない競技チアも、従来のイメージを覆すチアの一つである。 アメリカで発祥したチアは、各国の事情に合わせながら、日本やヨーロッパへと拡大した。 さらに、性の対象としてエロチックな分野にも広がった。
トライアウトが制度化された事により、学校内でのチアリーディング(応援チア)がシステムとして完成した。 さらに、チアが商業的に制度化された事により、学校外でのチアリーディング(競技チア)がシステムとして完成した。 トライアウトと商業チアの制度化により、スポーツでの単なる応援はチアリーディングとして完成した。 完成されたチアは様々に派生し、日本を含む世界へと拡大した。 世界へ広がったチアは欧州において統一機関を発足させ、標準化された安全規定を設け、チアリーディングをさらに進化させた。 しかしながら、アメリカと日本では競技者の安全よりもカネが優先され、後塵を拝する結果となっている。
プロフェッショナル・チアリーダーとは理想の恋人である。 プロチアを理想の恋人に仕立てるために、物理的手法と論理的手法の二つが用いられる。 物理的手法とはチアの外見であり、ロングヘア、ショートヘア、金髪、黒髪、赤毛、白人、黒人、アジア人と、オーディションによって 多様な女性が集められる。 チアの外見が被らないように集める理由は、長い髪が好きな人、短い髪が好きな人といった、観客の多様な好みに合致させるためである。 論理的手法とはチアのアート(技術)であり、性と健全(あるいは処女と誘惑)といった、二律背反する力をきわどく自己同一させて男を魅了する。 具体的には、ミニスカートや開いた胸元、性的なダンスムーブを見せる一方で、サイン会やキッズチア講習では健全な姿を見せる。 こういった性と健全という矛盾を一つに体現させているのがチアリーダーであり、その手法がプロチアのアート(技術)である。 他で例えると、チョコは甘さと苦さという矛盾が一つになっており、甘くて苦いという一点を見出すのが、お菓子職人のアート(技術)である。 これを禅では億劫須臾(おくこうしゅゆ)と言い、ギャップ萌えとも言う。 プロチアは好みの外見で性的に誘惑しているにも関わらず、実際に近づくと性的要素は皆無の健全な女性であり、誰も手に入れる事ができない幻のような理想の恋人である。
ダラス・カウボーイズチアリーダーズ(DCC)こそプロチアの歴史である。 というのも、プロチアの歴史は「ダラス・カウボーイズチアリーダーズ(DCC)より前」と「DCCより後」の二つに大別できるからだ。 DCCより前のプロフェッショナル・スポーツチームのチアリングはまだフォーマットが確定しておらず、大学のような応援であったり、 高校生チアがボランティアで務めていた。 そこにDCCが登場し、近代的プロチアのフォーマットを全て作り上げた。 DCCより後は、DCCそのものの歴史か、DCCが作り上げたフォーマットを模倣した他の全てのプロチアの歴史である。
DCCより前は黎明期であり、プロチアの古代史である。 1920年代、大学では応援歌、エールリーダーズ、マーチングバンドによる応援が実施されており、これらがNFLにも持ち込まれていた。 1950年代と1960年代のNFLは主に高校生のボランティアであり、美女よりもチアリングが優先された。 1954年のボルチモア・コルツ(メリーランド州)がNFL最初のチアリーダーズを擁立したが、ほとんどが高校生のボランティアであった。 1970年、サンフランシスコ・フォーティナイナーズ(カリフォルニア州)で若い女性が広報活動を始めたが、パフォーマンスは披露しなかった。 ここまでの歴史は、プロチアの前段階に当たる、NFLにおける応援やエンターテインメントの歴史である。
DCCより後がプロチアの本格的な歴史である。というのも、DCCがプロチアのフォーマットを最初に作り上げたチームだからである。 1972年、カウボーイズのジェネラルマネージャーであるテック・シュラムが高校生チアを大人の女性に置き換え、ポーラ・バン・ワゴナーによって へそ出しホットパンツの衣装が考案され、テキシー・ウォーターマンによりニューヨークスタイルのジャズが導入された。 1976年1月、全米にテレビ中継された第10回スーパーボウルでDCCがカメラに向かってウインクした。 これがグウェンダ・スウェリンゲンの「ハニーショット」であり、「スポーツ界における新しい恋人」が誕生した瞬間である。 1976年春、チアディレクターとしてスザンヌ・ミッチェルが雇用され、プロチアのフォーマットを完成させて、DCCの黄金時代を作り上げてゆく。 DCCの成功を見た他のNFLチームは、自チームのチアリーダーズを急いでDCC化させた。 DCCの黄金時代はテキサス州の石油バブル崩壊と共に終焉するが、全米での人気は衰えることはなく、プロチアのトップとして君臨を続けている。
プロスポーツチームの応援は大学スポーツの応援の影響を受けた。 1920年、フットボールのルール、年棒、移籍条件、大学生選手の扱い等を統一させたプロ組織が アメリカン・プロフェッショナル・フットボール・アソシエイション(APFA)として誕生した。 2年後、組織はナショナル・フットボール・リーグ(NFL)と改名し2020年に至る。 1920年代当時、大学ではエールリーダーズ、マーチングバンド、ファイトソングス(応援歌を歌う人々)が応援活動を実施しており、 NFLもその影響を受け、シカゴ・ベアーズ(イリノイ州)と フランクフォード・イエロージャケッツ(ペンシルベニア州)は自身の応援歌も持っていた*1。 これらは、1937年のワシントン・レッドスキンズ(ワシントンD.C.)の有名な応援歌「ヘイル・トゥ・ザ・レッドスキンズ(レッドスキンズへようこそ)」より早い。
ワシントン・レッドスキンズがマーチングバンドを持ち込み、以後、スポーツと音楽の組み合わせはよく見られるようになった。 1936年、ワシントン・レッドスキンズとラジオ・ブロードキャスティング・ネットワークのオーナーだったジョージ・マーシャルが、 ワシントン・レッドスキンズのハーフタイムに初めてマーチングバンドを持ち込んだ。 ハーフタイムにおけるマーチングバンドの出演とは、大学フットボールの応援スタイルである。 1937年、イースタンディビジョンの決勝戦に進出したレッドスキンズを応援するため、マーシャルは150人のバンドメンバーを電車でニューヨークへ送り込んだ*2。 こういったアウェイでの応援も大学スポーツの特徴である。マスコットも同伴し、アウェイの観客に首をもぎ取られたりする*3。 また、マーシャルはプロスポーツの試合のラジオによる全米中継を初めて実施した。 この放送には音楽が付けられており、1940年代における、レッドスキンズの全米規模の人気に火をつけた*4。 スポーツと音楽の組み合わせという手法は現在のプロスポーツにおいても頻繁に見る事ができる。
野球も大学スポーツの影響を受けたが、その本質を理解せず、相手チームを攻撃する応援に終始した。 プロフェッショナル・フットボールだけでなく、プロフェッショナル・ベースボールにおいてもチアリング部門が設立された。 しかしながら、野球のチアリーダーズはチアの外見を模倣しただけに過ぎず、その本質を理解していなかった。 野球のチアは「身奇麗、忠誠、スポーツマンらしい正々堂々とした態度」を模倣せず「ホームチームを応援する代わりに ... ビジターチームを攻撃する事に専念した。*5」 その後、チアリーディングはプロバスケやプロサッカーにも拡大したが、プロ野球(メジャーリーグ)のチアリーダーズは衰退し、 1990年代に至ってもプロフェッショナル・チアリーダーズを保有する球団は存在しなかった*6。
1950年代と1960年代におけるNFLチアリーダーズの多くはアマチュアであり、高校生のボランティアであった。 1954年、ボルチモア・コルツ(メリーランド州)がNFLで初めてチアリーダーズを採用した*7。 また、1950年代から1960年代にかけていくつかのNFLがチアリーダーズを所有していたが、その多くは高校生のボランティアであった。 NFLにはチア以外にも、ソングガールズ、ドリルチーム、ダンスチーム、その他の女性グループが混在していた。 初期のソングガールズ、ドリルチーム、ダンスチームは少数であったが、やがて40人〜100人に増加し、マーチングバンドと共に行進してダンスを見せた。 1960年の始め、ワシントン・レッドスキンズはインディアンのお姫様の衣装を着た若い女性グループを採用した。 レッドスキン(赤い肌)とはインディアンの意味であり、チームロゴにもなっている。 女性グループはバンドと共にマーチング行進を行い、試合中はポンポンルーティーンを披露した*8。
1970年に活動を開始した、サンフランシスコ・フォーティナイナーズ(カリフォルニア州)のナゲッツが、若い女性による活動の始まりである。 ナゲッツは応援ではなくサンフランシスコ・フォーティナイナーズを販売するための広報として活動を開始した。 「白いブーツのアンバサダー」としてナゲッツはデパートやゴルフトーナメントに定期的に出演し、 チームのシールやバンパーステッカーを配布したり、サイン会を実施した。 「ナゲッツの主要な仕事はセクシーに見える事であり、その仕事は完全に成功した。*9」 1973年、NFLにおける26チーム中21チームが、こういった女性グループを保有するようになった*10。 1974年、当初パフォーマンスを披露しなかったナゲッツだが、赤いホットパンツ、白地に赤のトップス、長袖シャツ、 白いカウボーイハット、白いニーハイブーツを着用し、試合前とハーフタイムショーにおいて、ダンスルーティーンを踊ったり 歌を歌うようになった*11。 若い女性によるプロモーション活動とパフォーマンス活動が融合したのである。
ダラス・カウボーイズチアリーダーズとはダラス・カウボーイズ(NFL、テキサス州)に所属するプロフェッショナル・チアリーディング・スクアッドである。 DCCはプロチアのフォーマットを作り上げた元祖であり、「チアといえばDCC」であり、世界最高の人気を誇る。 その人気の本質は観客の理想の「恋人」として仕立てあげられている点にある。 「恋人」に仕立てあげる手段として、グラマー、セックスアピール、セレブリティが用いられ、商業的成功につながっている。 DCCのグラマーである「贅沢で、派手で、目もくらむような輝き」は当時のテキサスの石油バブルから生まれた。 セックスアピールとは衣装とダンスによる性的挑発である。 性的要素はファンとの距離と比例しており、ファンと近くなるほど性的要素は減少し、遠くなるほど性的要素は増加する。 セレブとしてDCCはフィールドだけでなくテレビや映画に出演し、チャリティ活動も実施する。 DCCはポスターやカレンダーを世界規模で販売する。またイベント出演費用は高額であり、迎えの車はリムジンでなければならない*12。
DCCは世界最高のチアであるが、強すぎる光ゆえ、その影もまた暗い。 DCCの影とは、チアを性の対象とした罪、見た目の追求による弊害、性的モラルの崩壊である。 1960年から1971年までのダラスチアは高校生であり健全だったが、1972年から性的要素を押し出し、他のプロチアも模倣することによって、 チアは性の対象となった。 DCCは見た目の美を追求するあまり美容整形や危険なダイエット薬が横行し、見た目だけでチアを選ぶゆえパフォーマンスのレベルも低い。 DCCは恋人というよりもむしろ愛人である。というのも、「チアは触れられない」はずなのに、 現金、マンション、高級外車、コカインをくれるカネ持ちに対しては股を開くからである。 カネ目当てで股を開く女とは売春婦であり、チアがバカにされる最も大きな理由である。
1960年、DCCの前身である「ベレス・アンド・ビューク」が活動を開始した。 しかしながら、同スクアッドは高校生のチアリーダーズであり、観客の注目を集めなかった。 1972年、新しいアリーナへの移転に合わせてチアリーダーズも一新された。 ポーラ・バン・ワゴナーが衣装をデザインし、テシー・ウォーターマンが振り付けを担当した 「ダラス・カウボーイズチアリーダーズ」の誕生である。
1960年に誕生した「ベレス・アンド・ビューク」がDCCの前身である。 しかしながら、同スクアッドは存在感がほとんどないチアであった。 1960年にアメリカン・フットボール・リーグ(AFL)が設立され(1970年にNFLと合併)、NFLも対抗すべく参加チームを増加させた。 これにより、デンバー・ブロンコス(当時AFL、コロラド州)やカウボーイズ(NFL)といった新しいチームが誕生し、チアリーダーズを必要とした。 同年、カウボーイズのゼネラルマネジャーに就任したテック・シュラムがチアリーダーズを設立すべく高校教師のディー・ブロックを雇用した。 当時、スタンドでわたあめを持って販売するストリッパーをテレビカメラが捉えて大きな話題となっていた*13。 それを意識し、シュラムはファッションモデルによるチアを作りたかったが、ブロックは「モデルはチアを知らず、観客が興味を失う。」と反対した。 ブロックは30人の高校生チアリーダーズによるコ・エドチームを作った。 コ・エドチームは「ベレス・アンド・ビューク(仏:美女達と男性求婚者達)」と名付けられ、大学スタイルのチアを披露した。 同スクアッドは1961年のカウボーイズの最初の試合から1971年まで従事したが、 「伝統的なチアのベレス・アンド・ビュークはコットン・ボウル(カウボーイズの当時のスタジアム)では ほとんど存在感がなかった。」と1982年のカウボーイズは報告している*14。
1972年「ベレス・アンド・ビューク」に代わる新しいチアリーダーズの創設が決定された。 1971年、カウボーイズはコットン・ボウルからテキサス・スタジアムへホームアリーナを変更した。 この変更を期に、シュラムはチアリーダーズをキルゴア大学レンジャレッツのようなダンスを踊る事ができるグループに変更しようと考えた*15。 前述したように、レンジャレッツとはミニスカートでのハイキックが特徴のドリルチームである。 この時のシュラムの決意が1978年の「プレイボーイ」誌に掲載されている。 「我々は自身のチアリーダーズに関してファンの反応を再評価し、 ... 最初から ... アプローチを変え ... チアリーダーズをホームゲームの雰囲気を作るプロデューサーとする事に決めた。*16」 シュラムは、単なるスポーツイベントからメディアも含めた壮大なエンターテインメントへと変貌した、フットボールにふさわしいチアリーダーズの創設を決定した。
新しいチアリーダーズはダラス・カウボーイズチアリーダーズと名付けられ、アメリカを象徴する衣装とニューヨークスタイルのジャズを特徴とした。 DCCは衣装デザインをポーラ・バン・ワゴナーが担当し、振付師としてテシー・ウォーターマンが雇用された。 ポーラは青と白のへそ出しホットパンツという衣装を考案した。青と白は星条旗の色であり「アメリカのチーム」として愛国心をかきたてた。 へそ出しホットパンツは1972年において際どい衣装であったが、観客に好評だった。 他のチームが次々と衣装を変更する中、DCCは衣装を商標登録して、ほぼ変更する事なく使い続けている*17。 この衣装は盗難と悪用を避けるために自宅での洗濯が義務付けられ、紛失や損傷させたチアは解雇される*18。 テシーはダラス出身の著名なブロードウェイ振付師であり、ニューヨークスタイルのジャズダンスをパフォーマンスに導入した*19。 またトライアウトも担当し、100人の女性が集まって5人の審査委員の前でダンスを披露した*20。 テシーは、高校生とは異なり、少し年を取った7人を合格させた。 これは、ショートスカートとゴーゴーブーツが似合い、性的かつ挑発的なムーブができる年齢を求めたからである。
1960年に「ベレス・アンド・ビューク」が始動し、1972年の新アリーナ移転に合わせて「ダラス・カウボーイズチアリーダーズ」が 誕生した。 DCCの青と白のへそ出しホットパンツはポーラ・バン・ワゴナーが考案し、ニューヨークスタイルのジャズダンスは テシー・ウォーターマンが振り付けを担当した。
ハニーショットとはグウェンダ・スウェリンゲンのウインクであり、DCCの全米規模での人気を決定づけた。 1976年、第10回スーパーボウルに出場したDCCの一人、グウェンダ・スウェリンゲンがテレビカメラに向かってウインクした。 この試合は全米に中継されており、このウインクがきっかけとなってDCCは全米規模の人気を獲得するようになった。 チアリーダーズのテレビ放映は世間から批判されたが、DCCが出演したテレビドラマは48%の視聴率を獲得し、 その他スペシャル企画やテレビCMも放送された。
1972年、セーターとロングスカートを着て軍隊的なムーブをする胸の小さな高校生によるベレス・アンド・ビュークに代わり、 へそ出しホットパンツを着用して性的かつ挑発的なムーブをする胸の大きな大人の女性によるDCCがデビューした。 DCCの衣装は多少の議論を呼んだが、すぐにダラスで人気になった。 1976年、DCCの人気は全米規模となった。そのきっかけを作ったのが第10回スーパーボウル(NFLの優勝決定戦)でのハニーショットである。 この日、ウエスタンスタイルのショーガール衣装を着た36人のDCCの1人、グウェンダ・スウェリンゲンがサイドラインのテレビカメラに向かってウインクした。 このウインクは何気ないジェスチャーに過ぎなかったが、テレビを見ていた全米7,500万人に強力なメッセージを送り、魅了した*21。 カウボーイズの広報は次のように報告している。 「1976年の1月にダラス・カウボーイズチアリーダーズがマイアミのオレンジ・ボウルのサイドラインに立ち、中継テレビカメラにウインクした時から全てが始まった。*22」 また、後のDCCの一人であるステファニーは次のように言う。「誰も予見できなかった爆発を引き起こした。*23」 この試合の対戦相手であるピッツバーグ・スティーラーズ(ペンシルベニア州)は当時チアを保有しておらず、 DCCが試合を通じて常にスポットライトを浴びていた事も幸運であった。 テレビ関係者と視聴者は「スポーツ界における新しい恋人*24」に時代の始まりを感じ、DCCは最初のプロチアとして認識され、 以後DCCがプロチアのフォーマットとなった。
DCCを全米的な人気チアに押し上げたハニーショットの背景には、テレビ中継技術の向上があった。 1950年代早期よりテレビによるNFL中継が始まった。 テレビ中継により、スタジアムに来場していた人だけが観戦していた試合を地元の人達がスタジアムの外で視聴するようになり、また、 州の外でも視聴するようになった。 視聴者数が増加するにつれ、テレビの中継技術も向上した。 1964年、CBSネットワークはNFLのテレビ中継用に6台から7台のカメラを用意し、最初に「独立カメラ」を使用した。 独立カメラはスター選手のクローズアップ撮影だけに専念し、対象選手が素晴らしいプレイを披露した後、 「リプレイ」と呼ばれる巻き戻し再生を放送した*25。 「独立カメラ」はフィールドの選手だけでなく、ベンチにいる選手や観客もよくクローズアップで放送した。 さらに、フットボールは試合がよく止まるスポーツであり、その空き時間にサイドラインにいるセクシーなダンスグループをクローズアップで放送していた。 1976年のハニーショットは全米にとっては衝撃であったが、ダラスの観客にとっては1972年からのお馴染みのカメラショットであった。
DCCは「アメリカの恋人」だけでなく、アンディ・シダリスによって「メディアの恋人」にもなった。 DCCのハニーショットはスポーツ中継で繰り返し放送されるようになった。 その背景には視聴者の潜在的要望があり、ABC(テレビ局)に所属するスポーツディレクターのアンディ・シダリスがそれを洞察したからである。 「一度チアリーダーズを見ると、全てを見てしまう ... ポップコーン、男性、女性を見ていてもだ。自分にとってその選択は明らかである。*26」 シダリスは「ロサンゼルス」誌において「スタジアムから家庭へストリップショーを持ち込んだ男」かつ「チアリーダーズを『プレイボーイ』誌のヌードグラビアに送り込んだ男」と表現された*27。
シダリスは放送局の方針に反してでもチアの放映を続けた。 1979年、ABCはチアリーダーズのショットを自重する事に決めた。 というのも、「(高校生大学生より)年を取り、セクシーで、その上全裸」「短いパンツで体を振る」チアと、男性のロッカールームで選手にインタビューをする女性記者の性問題が批判されたからである*28。 オークランド・レイダーズ(NFL、カリフォルニア州)のコーチのジョン・メイッデンは、選手とチアリーダーズ、ならびに、 コーチとチアディレクターを入れ替えて、次のような非肉を言った。
私の予想はいずれ現実となるはずだ。チアDがコーチの代わりになる。試合はテレビにもっと映りたい女子を審査するためのコンテストとなり ... 試合に負けたチアDは試合後のインタビューで記者に次のように語るであろう。「我々は勢いを失い ... チームを再編して基本に戻らなければならない。」 ... ハーフタイムになり、チアリーダーズがロッカールームに引き上げた後、フットボール選手達がパフォーマンスを見せるために出てくる。そうであるにも関わらず、記者は何も書かない。というのも、記者はチアリーダーズのリプレイを見るのに忙しいからである*29。
ABCは自重を決定したが、シダリスがディレクターを担当したダラス・カウボーイズ対ロサンゼルス・ラムズの マンデー・ナイト・フットボール(著名なNFL中継番組)に再びチアリーダーズが登場した。 「ダラス・カウボーイズチアリーダーズが出演している間、カウボーイズの選手はほとんど見えなかった。おまけにチアはあちこちにいた。*30」
DCCが出演したテレビドラマは48%の視聴率を叩き出し、テレビCM、クイズ番組にも出演した。 1979年、DCCが出演した「ダラス・カウボーイズチアリーダーズ パート1」というテレビドラマが放送され、視聴率48%という、 テレビ史上2番目の高視聴率を獲得した*31。 ドラマはパート2も製作され、「ラブ・ボート(1977)」という別のドラマも放送された。 マンデー・ナイト・フットボールでは「テキサスの36人の最も美しい女子」というスペシャル企画が放送され、 ファベルジェ・シャンプーのCMにも出演した。 メンバーのステファニーとスゼッタは、スクアッド代表としてサラ・パーセル(テレビ司会者)からインタビューを受け、リアル・ピープル紙に掲載された。 さらに、両者を含む5人の選抜メンバーがファミリー・フュード(「クイズ100人に聞きました」のベースとなった番組)にも出演した*32。
DCCとはテレビ時代の申し子である。 1970年代に始まった全米規模のテレビ中継がなければ、DCCはテキサスという田舎の人達だけが知っている、 限られた存在となっていたであろう。 天下とは一人の人間が取るものではなく、時勢と人々が取らせるのだ。 DCCがいかにグラマラスで革新的であっても、テレビという時の勢いと、DCCを支持した人達がいなければ、 当時の大成功はありえない。
スザンヌ・ミッチェルとはカウボーイズのチアディレクターであり、DCCの黄金時代を築き上げ、プロチアのフォーマットを作った。 1976年春、テック・シュラムは自身の秘書としてスザンヌ・ミッチェルを雇用した。 スザンヌは2年間秘書としての仕事をした後、DCCのチアディレクターに就任し、最終的にカウボーイズの副社長も兼任している*33。 スザンヌがチアDに就任した1978年からテシー・ウォーターマンがチームを去る1982年までがDCCの黄金時代であり、 この期間にプロチアリーダーズのフォーマットが全て完成した。 スザンヌが作り他の全てのプロチアリーダーズが踏襲したフォーマットとは、規律、身体的容姿の標準、社会貢献活動である。 DCCの名声を拡大し、商業的成功を収め、DCCだけでなくプロチアをも定義したスザンヌは、冷血と非情をもってプロとしての仕事を完遂したが、 プライベートでは孤独な女性であった。
スザンヌは「健全かつセクシー」というチアの相反するイメージを保持するために、軍隊より厳しい規律や懲戒によってチアの振る舞いをコントロールした。 スザンヌの作った規律はオン・ザ・フィールドとオフ・ザ・フィールドの二つに分ける事ができる。 オン・ザ・フィールドの規律とは本番や練習での規律であり、挨拶、遅刻、解雇、練習環境、宝飾品、喫煙、ガムに関する規律である。 オフ・ザ・フィールドの規律とはプライベートでの規律であり、服装と恋愛禁止に関する規律である。 これらの規律は鉄の規律であり、軍隊より厳しい。 というのも、軍隊は勤務時間内だけが軍人で、勤務時間外は一般人とほとんど変わらないからである。 一方、プロチアは勤務時間外であってもプロチアであり、一般人とは区別される。 こういった規律は主にチアの健全性を保つためのものであり、チアのセクシーさと対比させ、単なるストリッパーと区別するために必要であった。
スザンヌとメンバーの関係は軍隊における上官と部下の関係と似ており、それは呼称にも現れた。 軍隊のような生死に関わる組織において、部下は上官の命令に絶対服従である。 というのも、生きるか死ぬかの戦場では、ちょっとした不服従が全員の命に関わる場合が多々あるからだ。 この上官と部下の関係は「イエス、サー」「サンキュー、サー」という言葉に現れている。 サー(Sir)とは男性に対するあらたまった敬称である。 日本語で言う「○○様」はミスター(Mr.)であり、それより重く、サーに該当する日本語には「大佐」や「少尉」といった位階が必要になる。 スザンヌはメンバーに「イエス、マアム」「サンキュー、マアム」と呼ばせたが、これは 「はい、奥方様」「ありがとうございます、大佐婦人」と呼ばせているに等しく、軍隊のような絶対服従の象徴であった*34。
軍隊どころか、スザンヌにとってメンバーはパズルの一片にすぎず、生殺与奪の権すら持っていた。 事前に連絡していても、練習に遅刻したり欠席したメンバーに対して、スザンヌは次の試合でのパフォーマンスを禁止した。 さらに、練習を二度休んだメンバーは解雇した*35。 映画やグッズの収入がチアに一切支払われない件に関してメンバーが不満を表明した時、スザンヌは次のように言った。
「カネはダラス・カウボーイズに行きます。あなた方はダラス・カウボーイズの一員であり、あなた方がしている事は、スポーツ界における最も偉大なチームを応援するという名誉ある活動です。あなた方のポジションを2,000人の女子が狙っています。あなた方がチームに加入した事で支払いは済んでいるのです。*36」
これは要するに「お前の代わりはいくらでもいる。嫌なら辞めろ。」であり、明らかな恫喝である。 実際、チアの誰かが解雇されても、スザンヌはすぐに代わりのメンバーを見つけてきた。 チアを解雇した時の代替要員を、スザンヌは事前に確保していたのである*37。
メンバーはシュラム、スザンヌ、カウボーイズの中間搾取に気づいたが、不平を言う人達をスザンヌは解雇した。 1978年、DCCが主演した「ザ・ダラス・カウボーイズチアリーダーズ パート1(1978)」の撮影が始まった。 このテレビ映画は48%という当時テレビ史上2番目に高い視聴率を獲得し、続編も作られたが、チアには出演料が一切支払われなかった。 また、芸能事務所のウィリアム・モリス・エージェンシーを通じてイベントやCMに出演し、スポーツ・イラストレイテッド誌、 タイム誌、ニューズウィーク誌の帽子の広告に出演し、カウボーイズは何百万ドルもの利益を得たが、ここでもチアに出演料はなかった。 映画の撮影中、無給での出演はおかしいと気づいた何人かのチアが他の俳優に尋ねたところ、チアへの手当はエキストラと同額の最低賃金であった。 テキサス州には労働組合制度がなく、シュラム、スザンヌ、カウボーイズはチアを無給で使役でき、実際そうなっていた。 また映画の上映回数毎のロイヤリティもなく、グッズも同様であった。 この状況に多くのメンバーが気づいた時にスザンヌが言ったセリフが前述の発言であり、それでも不平を言うメンバーをスザンヌは解雇した。 スザンヌはダラス・カウボーイズチアリーダーズである事に満足し、それ以外は何も期待しない人間を求めていたのである。
スザンヌの考えに反対し、中間搾取される事なく、自分達だけでチア活動を実施したいと考えたメンバーがダラス・カウガールズを結成した。 DCGはチアリーダーズのプロモーションやイベントへの出演を自分達だけで実施した。 また、アルコールが提供される場所といった、DCCが出演を拒否する場所での活動も行った。 さらに、DCCのポスターを模倣し(加えてユニフォームの胸元をさらに開けて)販売した。 中間搾取の回避というDCGの当初の目的は、DCCのイメージを使ったカネ儲けへと変質した。 オセロをひっくり返すかのごとく、白が黒に、善事が悪事に変わる事はよくある。 結局カウボーイズがポスターの販売を差し止め、DCCを性的なイメージで販売するDCGは終息した。 その一方で、皮肉な事に、DCCのようなブーツとハットを着用したチアリーダーズが給仕するいかがわしい酒場で、DCC本人が働く事はあった。 さらに悪い事に、店のオーナーとそのメンバーが愛人関係にあり、赤いポルシェをもらったり、メキシコ旅行に連れて行ってもらったりしていた*38。
スザンヌは、DCCのブランド価値を保護するため、宝飾品、ガム、喫煙、飲酒に関する厳しい規則を作った。 DCCがユニフォーム姿で身に付ける事ができる宝飾品は、シーズンの最初に配布されるチアリーダー・リングだけである。 スザンヌが宝飾品を禁止した理由は、ユニフォームこそが宝である点、ファンよりカネ持ちではないとアピールする点、学生チアも禁止されている点の3つである。 ユニフォームはDCCにとって宝であり、商標登録もしている。その宝にいまさら何を加えるのであろうか?プロは足し算ではなく引き算でものごとを考えるのだ。 カネとは力である。宝飾品をジャラジャラぶら下げた「強い女」をファンは応援するだろうか? 学生のチアスクアッドでも宝飾品は禁止されている。学生のオーディションの場合、無地の白いシャツを指定する場合もある*39。 ガム、喫煙も学生チアで禁止されている。例えばヒックマンミルズ(ミズーリ州)のラスキン高校のペップクラブ憲法は次の通りである。
練習を欠席したりユニフォーム着用時にチューインガムを噛んだ場合、次の試合でチアができなくなる。ユニフォーム着用時に喫煙した場合、スクアッドを解雇される。
飲酒も学生チアでは禁止されているが、酒に関しては、そもそもユニフォームを着て酒を提供する場に入る事すら許さなかった。 フットボール試合の前日の金曜日の晩に、大学生チアが校内のバーやパブを訪れ、ファイトソングや応援を披露する事はある。 (ラン・アラウンドと呼ばれている。)しかしながら、そういった場合は男性チアがボディガードとして女性チアの後ろで腕組みをしている*40。 男性チアはフットボール出身だったりするので、ボディガードにも適任である。 こういった厳しい規制は学生チアの規制と共通しており、両者において、自らのブランド価値を守る役割を果たしている。
スザンヌはチアと選手の恋愛禁止ルールを作った。 恋愛禁止ルールの目的は、選手を自分の仕事に集中させるためだ。 シーズンにおける最も重要な試合において、あるカウボーイズの選手が、遠征に出発するチームの専用飛行機に乗り遅れた。 選手はチアとデートしていて飛行機に乗り遅れたのである。 激怒したカウボーイズは選手に高額の罰金刑を科し、選手とチアを遠ざける事にした*41。 選手との接触禁止はDCCの最初のミーティングでスザンヌから告げられる。 スザンヌはまず試合の様子を10分間上映した。 その後、なぜこの映像を上映したのかチアに尋ねた。 チアは「フットボールの興奮を見せるため。」「カウボーイズがどのようなチームか見せるため。」などと答えたが、 スザンヌは次のように言った。「いいえ。この映像は何が限界であるかを見せてくれるものです。 ここに映写されている距離が、チアが選手に近づいて良い距離の限界です。*42」 そうであっても、試合中にサインを送り合う事によってデートの約束を取り付ける選手とチアもいた。 選手がひざまずいてヘルメットを抱えればデートのお誘いのサインだったが、何人ものチアが一斉にポンポンを振ってその誘いに答えた。 恋愛禁止ルールを破ったり、あるいは、何気ない理由で選手と「仲良く」しているだけであっても、チアは直ちに解雇された。 ただ、このルールはほとんどのDCCに影響を与えなかった。 というのも、DCCの周囲には選手よりもカネ持ちの男が溢れており、選手と付き合う必要がなかったからである。
DCCの恋愛禁止ルールは他のチームにも波及した。 オークランド・レイダーズのオークランド・レイデレッターズにも恋愛禁止のルールが存在する。 しかしながら、オークランドの場合、結婚している選手とだけ接触を禁止した。 チアが結婚している選手に近づかないように、チームは既婚者リストを毎年作成してチアに配布している。 独身の選手とは付き合う事ができたが、トレーニングキャンプ、練習場、ロッカールームでの接触は許可されなかった*43。 選手だけでなくチアはスポーツチームの社員との交際も禁じられており、また、他の競技のプロ選手や元プロ選手とも自発的に交際しない。 ただ、選手とデートしたり、結婚してセレブの仲間入りする事を目的としてチアになる人も存在する。 そういったチアはグルーピーと呼ばれ、リスクを承知でスポーツ選手やセレブと見境なくデートし、 目的を達成できるのであればチアを簡単に辞める*44。 チアがライバルチームの選手と結婚する事もある。 ワシントン・レッドスキンズのシルビア・ローズは、ライバルチームであるマイアミ・ドルフィンズのディフェンシブ・バックのドナヴァン・ローズと結婚した*45。
チアの恋愛禁止ルールが訴訟に発展する事もある。 1985年、ヒューストン・オイラーズ(NFL、テキサス州)の3人のチアが出席したパーティに、何人かの選手も偶然出席していた。 選手に気づいたチアは、誤解がないようすぐにパーティ会場から立ち去った。しかしながら、何者かがチームに報告し、3人のチアは解雇された。 3人のチアはチームの決定を不服として法廷に訴えた。 法廷では「ある」と主張する側が根拠を示さなければならず、「ない」と主張する側は特に何もしなくても良い。 例えば、「こいつが犯人」と検察が主張するのならば、検察が根拠を示さなければならず、被告は何もしなくて良い。 これを立証責任と呼び、根拠がなければ被告は自動的に「シロ」(無罪)である。 今回の裁判も同様であり、チームは根拠を示すことができず、チアは「シロ」となった。 しかしながら、オイラーズはチア雇用契約書に記載された「理由の有無に関わらず」解雇できる条項を用いて、3人を解雇した*46。
スザンヌが作った規律はDCCを保護したが、他のチームはスキャンダルに晒され、チアが解雇されたりチアチームそのものが解体された。 1978年、デンバー・ブロンコスのポニー・エクスプレスがプレイボーイ(男性誌)のグラビアに登場した時は、議論が起こる程度で済んだ。 しかしながら、1979年、別の2人のメンバーが同誌にトップレスで登場した時、チームは2人を解雇し、 1980年にはポニー・エクスプレスそのものを完全に解体した*47。 サンディエゴ・チャージャーズ(NFL、カリフォルニア州)においてもチアのリニタ・シリングがグラビアに登場し、 グラビアに掲載されていなかった他のメンバーも含めて、チームはチア全員を解雇した*48。 シカゴ・ベアーズ(NFL、イリノイ州)のジャッキー・ロールが解雇された時は次のように毒づいた。 「ポスター写真を撮影をする場合、プッシュアップブラを付けた上で胸を寄せて谷間を多く見せるよう、チームは私達に言った。そうであるにも関わらず、私がヌード撮影をしたと耳にすると、チームは不快感を示した。*49」 ロサンゼルス・エクストリーム(XFL、カリフォルニア州)のボニー・ジルがe-zine(アダルトサイト)でヌードになった時は、 他のメンバーを次のように擁護した。 「ヌードになる私達がチアリーダーズとは無関係であると明確に示した上で販売し、... チーム、ならびに、他の女子は、ストリッパーでもなければポルノ女優でもありません。*50」 一方、1978年12月号のプレイボーイに「プロフットボールの主役」というタイトルで5人のDCCのOGが登場した事はある。 5人はDCCとよく似たユニフォームを着ていたが、胸元はより開いていた*51。
「健全かつセクシー」というDCCのイメージの保持がスザンヌにとって第一であった。 そのために、軍隊よりも厳しい規律や懲戒をチアリーダーズに求めて課した。 選手との恋愛禁止ルールも鉄の掟の一つである。 しかしながら、こういった厳しいルールが存在しない場合、メンバーがヌードグラビアに登場したりして、チームそのものが解体された。
スザンヌはDCCに完璧な外見を求めた。 というのも、スザンヌとシュラムにはチアを広報に活用し、集客を増やすという明確な目的があったからである。 この外見の追求がDCCの問題の根源となった。 DCCは、テキサス州、ならびに、アメリカを代表して、オン、オフに関係なく完璧な美を追求する必要があった。 完璧な美を追求するために、スザンヌは最初の練習でメンバーを身体検査し、厳しいダイエットを要求した。 このダイエットには、ダイエット薬、利尿薬、下剤、麻薬が使用され、麗しい外見とは裏腹にDCCの健康は蝕まれた。 完璧な外見を整えた上で、メンバーごとに髪型や髪色を指示し、勝手な変更は許されなかった。 美容整形も行われ、胸を増量させたメンバーがカレンダーの表紙を飾った。 これらにより、完璧な外見を持ち、なおかつ、ファンの好みの個性が一人は在籍する、アメリカの恋人が誕生した。
スザンヌはDCCがテキサス州だけでなくアメリカをも代表しているとメンバーに叩き込んだ。 それゆえ、完璧な美を追求する事はDCCの義務となった。 この義務は試合やイベントだけでなくプライベートにも及び、DCCはメイクやヘアメイクなしで外出する事は許されなかった。 外出とは、パーティやショッピングはもとより、近所のスーパーで牛乳を買う事も含まれた。 バレないと思い、あるメンバーがカーラーを付けたままトム・トゥンプ・ストア(スーパーマーケット)へ行った事がある。 そういう時に限って、スザンヌとばったり遭遇した。 DCCのステファニーは次のように言う。「メンバーの誰かが悪さをすると、いつもスザンヌが現場にいました。*52」
スザンヌが求めた完璧な美、ならびに、24時間続くその責任は、ニュースキャスターやお天気お姉さんの美と責任に酷似している。 ニュースキャスターやお天気お姉さんはテレビに出演するセレブであり、完璧な美を24時間継続させる事が求められている。 またDCCとアメリカのニュースキャスターやお天気お姉さんのメイクやヘアは非常に似ており、 あるいは、スザンヌの理想とはニュースキャスターやお天気お姉さんだったのかもしれない。 それを裏付けるように、プロチアオーディション向けの本を執筆したフラビアは次のように言う。
したがって、休みの日や普段の生活であっても、あなたにはプロ意識と美のキープが求められます。フィールドやコートに立っていない時であっても、あなたは常に見られているのです。あなたが好きな地元のニュースキャスターが、引っ張られた猫みたいに郵便局へ入ってきた場合、あなたはどう思うでしょうか?あるいは、カーラーを付けたままだったり、スウェットパンツが擦り切れていたり、泥酔していたら?テレビのニュースキャスターもあなたと同様の選択をする必要があります*53。
スザンヌは最初の練習でメンバーを身体検査し、気に入らない箇所を告げ、変更させた。 DCCには一人一人異なる個性が求められる。なぜなら、DCCを見る観客の好みが一人一人異なるからである。 全ての観客の好みに対応できるよう、ブロンド、赤毛、ブルネットの髪の色を用意し、ショートヘア、ロングヘアの髪型に分け、 人種もアフリカ系アメリカ人、白人、アジア系、ヒスパニック系と用意している。 この選別作業をスザンヌは最初の練習で実施した。 スザンヌはメンバーを一人ずつオフィスに呼び出し、目を合わせる事なく歩み寄り、上から下まで体の各部を注意深くチェックした。 その後、いつも持ち歩いていた小さな黒いノートに何かを書きつけ、メンバーに自分の気に入らない箇所を告げるのである。 気に入らない箇所を告げられたメンバーは、髪の色を変えたり、切ったりしなければならなかった*54。 こうする事により、グループ全体でメンバーの個性が重複しないようにしたのである。 個性の重複の回避は日本のアイドルグループでも実施されている。 例えばモーニング娘。では、先輩メンバーと髪型が重複した場合、後輩メンバーは自発的に髪型を変更しなければならない。
ユニフォームをアメリカの象徴と考えていたスザンヌは、余計なでっぱりが星条旗を汚す行為と考え、違反するメンバーを厳しく処分した。 スザンヌは最初の練習の後に、メンバーに黒く分厚いファイルを渡した。 そのファイルには、DCCのルールや各メンバーに期待する事が書かれていた。 その最後のページには体重表とリストがあり、リストにはヒップ、ウエスト、腕など、メンバーが減量すべき10項目が書かれていた*55。 減量すべき箇所として、リストの複数項目にチェックが入っているメンバーもいた。 スザンヌにとって体重は重要事項であった。 というのも、カメラに撮影されると4.5kg増量しているように見え、また、ユニフォームにおける余計なでっぱりはユニフォームを汚す行為であり、 それは星条旗に対する不名誉と同等だと考えていたからである。 メンバーがベストな体重でないと判断した場合、スザンヌは1試合の出場停止処分を告げ、それでも問題が解決されなければ解雇した*56。
スザンヌは厳しいダイエットを要求し、体重45.4kgのメンバーに対し、あと2.3kg落とすよう命じた。 DCCはオン・オフに関係なく人の目に晒され、普通の人なら見逃される小さな箇所も、顕微鏡によって拡大して見られる。 これはDCCが理想的かつ完璧な美を持たなければならない事を意味し、その基礎が体重となった。 スザンヌは毎週体重測定を実施し、体重が超過したメンバーを全員の前で叱責した。 全員の前でやらなければならない事は賞賛であり、叱責は他に人がいない場面でやらなければならない。 また、メンバーの名前と容姿に関するコメントがロッカールームのドアに貼り付けられ、その前を通る全ての人に見られるようになった*57。 スザンヌが求める体重は極めて厳しく、身長174.7cm、体重45.4kg、服のサイズ7のメンバーに対し、「あと2.3kg落とすように」と命じた*58。 この条件で計算したBMI値は15であり、日本肥満協会が定めた平均BMI値の22より32%低い。 このような無理な体重目標を達成するために、薬物や餓死寸前の危険なダイエットが実施された。
スザンヌの体重に関するプレッシャーは厳しく、DCCは減量するために危険なダイエット薬を使用した。 スザンヌは毎週月曜日に体重測定を実施し、メンバーに対して3週間で9kgのダイエットを命じたこともある*59。 こういった常識はずれのダイエットを達成するために、下剤、利尿薬、フェン・フェン、アンフェタミン、デキセドリン、 コカインといった薬物が使用された。 下剤と利尿薬の目的は水分の排出である。海から陸に上がった生物は自分の体に海を持っている。 それが水分であり、人間の体は半分以上が水で構成される。その水を体から排出すれば、理論的には体重は半分になる。 しかしながら、人為的な水分の排出は危険であり、「耳が乾燥し、このままでは聴覚を失う。」と医者から警告されたDCCもいた*60。 フェン・フェンとはダイエット薬の一種であり、危険性が指摘され、後に市場から回収された。 フェン・フェンは医師から処方される必要があったが、カネ目当ての「ダイエット・ドクター」がダンサーにばらまいていたと、 ダラス・マーベリックスダンサーズ時代の元DCCが証言している*61。 アンフェタミンとデキセドリンもダイエット薬の一種だが、これらは日本では覚せい剤取締法に抵触する薬物である。 アンフェタミンの副作用によって興奮し、錯乱状態になったり、拒食症となり、デキセドリン、下剤、サプリメント、睡眠薬を 食事代わりに服用していたDCCもいた*62。 コカインはDCC黄金期と同時に出現した麻薬であり、文字通り「骨と皮」になるまで痩せ、服用者は他のDCCにもすぐにわかった。 しかしながら、DCCのユニフォームはそういった「骨と皮」にフィットするようデザインされており、コカインの服用者はベストな外見となった。 スザンヌはそういったメンバーをみんなの前に並べ、賞賛した。
何人かのメンバーは空腹に耐えられなくなってものを食べ、その後罪悪感に耐えられなくなって吐くという行為を繰り返した。 DCCは昼に学校や仕事へ行った後、夜に全力でダンスを踊るという生活である。 こういった生活には高いカロリーの摂取が必要であるが、DCCはそれが許されなかった。 腹が減ったメンバーはキャンディーバーやクッキーといった高カロリー食品を食べ、食べた後罪悪感に蝕まれて一晩中吐いた。 DCCのステファニーはドーナツが大好きであり、コーヒーも砂糖を山盛りに入れ1日10杯から12杯を飲んだ。 さらに、練習後午前1時から2時に地元の終夜営業の飲食店に繰り出し、バナナスプリット(バナナにクリームやチョコをかけたデザート)や マヨネーズに浸ける油っぽいフライドポテトといった高カロリーのジャンクフードを食べた。 こういった高カロリー食品を腹いっぱい食べた後、ステファニーは2日間断食した*63。
食べて吐くを繰り返す行為は摂食障害の一つであり、高校生チアリーダーズでも確認されている。 ジーン・ランドホルムとジョン・リテレルは摂食障害に関する調査をチアキャンプに参加していた751人に実施した。 それによると、細さへの願望が最高点に到達すると、女子高生チアリーダーズは食べて吐くを繰り返すと報告した*64。 また両者の報告書は次のようにも述べている。 「チアリーダーズ、ダンサーズ、スポーツ選手といった思春期の若者における様々なグループは、しばしば明確かつ無条件に、同じ身長の若者における平均よりも軽くなるよう体重をコントロールする。*65」 高校生チアリーダーズにスザンヌはいない。 しかしながら、テレビ番組やコマーシャルに出演する、極端に細くガリガリのタレントが高校生チアリーダーズのスザンヌである。
大学生チアリーダーズは「健康」「スタンツ」を理由として体重制限を実施している。 1990年、コネチカット大学(コネチカット州)チアリーダーのミシェル・バドニックは67kgの体重でスクアッドに合格した。 しかしながら、翌年の継続トライアウトで57kgの体重制限に引っかかった。 ミシェルはDCC同様に下剤と利尿薬を利用したが、体重制限をクリアできず、スクアッドを解雇された。 ミシェルは州の人権委員会に不服を申し出てこの体重制限は撤回されたが、その時の大学側の言い分は次のとおりであった。 「元々チアリーダーズの安全を考慮してのものであった。 男性チアリーダーズが女性チアリーダーズを空中に投げる事がなくなって以来、変更された。*66」 チアリーダーズの身体的標準は「健康」で「スタンツ」可能な外見であるが、これはチアリーダーズには細い体を必要とする事を暗喩している。
スザンヌは入院してやせ衰えた体を理想的な体として紹介した。 USOツアー(海外に展開するアメリカ軍への慰問)で韓国に行ったスゼッタ・シュルツが虫に刺されて帰国した。 スゼッタは数日間入院し、その後数週間も体調を崩した。 病人食、特に病院食はおいしくない。 というのも、使用できる塩分量が厳格に定められているからである。 塩とは元来二番目に高額な食材であり(最も高額な食材は香辛料)、機械化が進む以前は、 人力で岩塩を掘り出したり海水を薪で何日も煮込んで取り出していた。 そうまでして塩を手に入れた理由は、塩がないと動物は生きていけないからである。 スゼッタも病人生活ですっかりやせ衰えてしまったが、スザンヌはスゼッタをメンバーの前に引っ張りだして言った。 「淑女の皆さん、スゼッタをご覧なさい。これがあなた方の理想の体型です。*67」 DCCは痩せるために入院する必要があった。
DCCが私服の撮影をする時はスザンヌがメンバーの家に押しかけて最もセクシーな服を選んだ。 カウボーイズは「ザ・ダラス・カウボーイズ・ウィークリー」という週刊誌を発行している。 同誌には100,000人以上の読者がおり、毎週一人のチアが特集として掲載される。 掲載メンバーに選ばれた名誉はスザンヌから電話で知らされ、同時に、スザンヌがメンバー宅を訪問する日時も告げられた。 メンバー宅に到着したスザンヌはまっすぐ寝室へ向かい、洋服ダンスを開け、気に入らない服を奥に押し込み、 気に入った服をベッドの上に放り投げる。 そうやって放り出された服は、タンスの中で最もセクシーな服であった。
DCCは性的な誘惑をしているにも関わらず、実際に近づくと健全な女性であり、誰も手に入れる事はできないという幻想で人気を獲得している。 「ザ・ダラス・カウボーイズ・ウィークリー」での撮影は性的なポーズで実施され、下着での撮影もあった。 写真が性的なものとなった理由は、フィールドの真ん中にいるDCCと同様に、観客との距離が遠いからである。 一方、サイン会やボランティア活動でのDCCに性的要素は皆無であり、健全性をアピールした。 DCCは観客から離れるほど性的になり、観客に近づくほど健全になる。 ファンを焦らす性と健全のバランスこそがDCCの人気の秘密であり、プロフェッショナルチアリーダーズのアート(技術)である。 ステファニーは次のように言う。
これは「健全な女子とセクシーな女子」のパラドックス(逆説)です。母親に紹介したいミス・アメリカのような女子なのに、ホットパンツとホルタートップを着ているのですよ?そういった格好の女子がフットボールフィールドに立って挑発的なダンスを披露していますが、そのダンスの最中であっても、この女子は健全で男を避けるという事をファンに伝え続けています。ファンを焦らして、焦らして、焦らしながら、『どこにでもいる女子』という言葉で集中砲火するのです。ファンが見ているものはまやかしに過ぎず、グルグルと回る巨大な洗脳マシーンに放り込まれているようなものです。そうやってファンの気持ちを高めた上で、ファンはチアに近づく事ができないと伝えられます。チアは甘く、手を触れてはいけないものであり、妄想から鋳造された存在と言えるでしょう*68。
チアが幻でなければならない理由は、幻は現実となった途端にその価値が半減するからである。 江戸中期の風流人に柳沢淇園(やなぎさわきえん)という人がいる。号は里恭(りきょう)。 淇園は「ひとりね」という随筆集で次のように言う。
女郎を請け出す時、一斤半斤(いっきんはんぎん)といふ事あり。たとへば千両にて請け出したる女郎は、郭(くるわ)を踏み出すと五百両にくらいが見ゆるものなり。五百両は郭の門口(かどぐち)より、いづくともなう失(う)するといふ。
これは、遊廓の女を千両で買い取っても、遊郭の建物から出た途端、その価値は五百両に減ってしまうという意味である。 遊郭という幻が失われ、現実に引き戻されると、女の価値は半減する。それゆえ、DCCも同じように幻を重視した。 また、世阿弥(ぜあみ)の「風姿花伝」は能の極意として「秘すれば花、秘せずは花なるべからず」と言う。 これも、隠して幻とすれば花だが幻でなくなれば花ではないという意味であり、DCCだけでなく全てのエンターテインメントに通じる本質である。
行き過ぎた美の追求はDCCに美容整形の必要性を悟らせた。 NFLは夏頃にプレシーズンマッチが始まり、2月頃に決勝戦(スーパーボウル)が実施される。 12月にはクリスマスがあり、日本の正月休みのような、クリスマス休暇がDCCにもある。 休暇を終えたメンバーを観察すると、体が変化している事に気づくであろう。 あるメンバーは胸のサイズが増加し、あるメンバーは胸以外が小さくなり、あるメンバーは鼻がスリムになっている。 こういった美容整形をスザンヌが推奨した事はないし、カウボーイズも推奨していない。 しかしながら、そういった身体的改造を実施したメンバーがポスターやカレンダーに採用された*69。
スザンヌが作り上げたDCCの完璧な外見は集客に寄与したが、メンバーは健康を著しく害する結果となった。 細い体を作るダイエットは過酷であり、体重を落とすために危険なダイエット薬や麻薬が使用された。 美容整形も実施され、クリスマス休暇が明けると胸が大きくなっていたり、胸以外が小さくなったメンバーを見る事ができた。 カウボーイズのポスターやカレンダーにはそういったメンバーが採用された。
スザンヌの社会に対する最も大きな功績は、DCCにボランティア活動をさせた点にある。 DCCには2種類のボランティア活動がある。1つは有給のボランティア活動で、1つは無給のボランティア活動だ。 有給のボランティア活動を実施するメンバーはショーグループと呼ばれる選抜メンバーであり、アメリカ国外の米軍基地へ慰問に行く。 軍人の地位が高いアメリカにおいて、慰問団への選抜は大変な名誉を伴う。 それゆえ、ショーグループに所属するメンバーには給与が支払われている*70。 無給のボランティア活動とは、病院、孤児院、養護施設への訪問である。
有給のボランティア活動とは海外基地への慰問でり、ショーグループによって実施される。 ショーグループとはDCCの選抜メンバーであり、歌やバレエといったチア以外の才能も有した、8人から12人のグループである。 ショーグループは、アメリカ国内での有料イベントだけでなく、海外のアメリカ軍基地もボランティアで訪問する。 アメリカでは軍人の地位が高く、基地への慰問活動は大変な名誉である。 多くのチアリーダーズに固定給はないが、ショーグループは給与を受け取っている。
DCCはアメリカの愛国心でもあり、それを体現すべく、世界各地の米軍基地を慰問している。 DCCはアメリカ国旗を暗示する青と白のユニフォームに身を包んだ「アメリカの恋人」であり、海外に展開する米軍基地に30年間で42回も慰問した*71。 アメリカにおける軍事基地への慰問は大変な名誉である。 というのも、実質的に一神教を国教とするアメリカにおいて兵隊は神の兵隊であり、敵は倒すべき悪魔であり、 悪魔を倒すアメリカ兵はスーパーヒーローの扱いだからだ。 海外の米兵が、サウジアラビア国王、エジプトのムバラク政権、フィリピンのマルコス大統領といった、 人権を蹂躙(じゅうりん)する独裁者を支援すべく駐屯していても、それがかえりみられる事はない。 アメリカが神であり、その国益は常に正義なのだ。
米軍基地を慰問するメンバーはショーグループと呼ばれる選抜メンバーであり、給与も支給される。 ショーグループとはDCCの選抜メンバーである。 選抜メンバーは、美貌、ダンス、歌、バレエにおいて特に高い能力を有する8人から12人であり、 チアディレクターのスザンヌと振付師のテシーによって決定された。 歌やバレエといったチア以外の才能を必要とした理由は、SGは単なるチアスクアッドではなく、トークや歌謡ショーも実施したからである。 このSGを大手芸能事務所であるウィリアム・モリス・エージェンシーが全米に販売し、 ステート・フェアー(テキサス州で開催される大規模な農工業祭り)、各種会議、アメリカ全土でのハーフタイムショーに出演した。 また、世界各国のイベントでパフォーマンスを披露するのもこのSGである。 SGは給与を得ているが、一方で、給与を得ていないメンバーに対して「カネ目当てで応援するメンバーを観客は求めていない。」とチームは言っている*72。
SGのパフォーマンスは、歌ありトークありコメディありで、テキサスの心を感じさせる内容になっている。 SGは1時間のパフォーマンスに10曲の音楽と8つの衣装を使用する。 8つの衣装を使用するには早着替えが必要であり、舞台脇にはけるとすぐに衣装を脱がねばならず、タップとバレエシューズが飛び交い、 舞台に戻る数秒前にジッパーとボタンが閉じられる。 衣装を忘れた場合、理由の如何を問わずダラスまで取りに帰らなければならない。 ショーは「ウィー・ラブ・ザ・カウボーイズ」(DCCの楽曲の一つ)から始まり、チアがタンブリングとフリップでステージを横断する。 その後、バレエ、ミュージカル・コメディ、映画のダンスナンバーが披露され、ギターが演奏された*73。 当然ダンスパフォーマンスとラインダンスも存在し、アメリカの恋人達に観客は酔いしれるのである。
SGの慰問先は世界各国の米軍基地におよび、危険地帯にも訪れる。 SGは、韓国、ギリシャ、クレタ島、イタリア、シシリー島、グリーンランド、アイスランド、ポルトガル、ドイツ、フィリピン、トルコ、レバノン、シナイ半島、ディエゴガルシア島の米軍基地を訪問した。この慰問旅行はUSO(United Service Organizations)ツアーと呼ばれている*74。 ショーは必ずステージの上で実施されるわけではない。飛行機の格納庫の中や空母の甲板上に特設ステージが設置される場合がある。 インド洋に展開していた空母USSコンステレーションで実施された大晦日パフォーマンスには5隻の軍艦が横付けして停泊し、30,000人以上が集まった。 着替える場所はSGが乗ってきた大型ヘリの背後であった。 SGは甲板いっぱいを使ってラインダンスを踊り、0時に21発の祝砲が撃たれ、将校も兵も関係なく抱き合いながら「ゴッド・ブレス・アメリカ」を歌った*75。 SGがベイルートで宿泊した基地は6ヶ月後に爆破された。1983年のベイルート・アメリカ海兵隊兵舎爆破事件である。 韓国と北朝鮮の軍事境界線を訪れた事もある。そこではチアも防弾チョッキとヘルメットを着用し、1日で6箇所の司令部や兵舎を回った。 起床時間は05:30で就寝時間は02:00、休憩は1日1回で30分間しかなく、メイクを落とす事なく兵と食事をしたりサイン会をしたりした*76。 パレスチナとイスラエルの間の検問所を通過する時は銃撃され、ジープから飛び降りた事もある*77。
SGの慰問は帰国後も続き、兵の家族に電話して、実際に会った息子や夫の元気な様子を電話で伝える。 海外の駐屯地からアメリカ国内への連絡は難しくなく、電話やインターネットで簡単に接続する事が可能である。 しかしながら、海外に駐屯する兵とアメリカに在住する家族が実際に会う事は難しい。 それどころか、地理的条件によっては、数カ月間基地から出る事すら難しい。 例えば、韓国と北朝鮮の軍事境界線にある基地はヘリコプターでしか出入りできない場所に存在し、また、 イギリス領ディエゴガルシア島はインド洋のど真ん中に浮かぶ絶海の孤島である。 そういった場所にSGが訪れると兵は涙を流して歓迎し、住所と電話番号が書かれた紙を手渡す。 帰国後、SGは兵の母や妻にあなたの息子や夫は元気だったと電話し、兵がまだ会っていない生まれたての子供にキスをする。
男と男が肉弾戦で激しくぶつかり合うフットボールはスポーツという名の戦争であり、DCCは戦いで疲れた男達を癒やすピンナップ写真である。 第二次世界大戦のアメリカ軍における女性の最大の貢献は、ピンナップ写真による士気(やる気)の向上であった。 ピンナップ写真は美しい女性が印刷された単なる写真ではなく、戦場という殺し合いの場において、 士官、下士官、兵の階級を超越して一体とさせるコミュニケーションツールとなっていた*78。 故郷で待つ女性を守るために戦う兵を一体化させ士気を高めたピンナップ写真は、愛国心の一形態として理解されている。 戦場で戦う男達の士気を高め、愛国心を体現した美しい女性とはまさにDCCそのものであり、 DCCはフットボールとしてルール化された戦争に華を添える一枚のピンナップ写真である。
SGのメンバーは稼働が多く、怪我が絶えなかった。 チアリーディングに怪我はつきものである。特にアマチュアの場合、日程とスタンツの二つの問題が怪我を増加させている。 日程とは、チアには野球やサッカーのようなオフシーズンがなく、一年を通じて稼働しなければならない事による怪我である。 スタンツとは、ジャンプ、ピラミッドの構築、タンブリングといった、アクロバットにおける怪我である。 国立センター(米)による重大スポーツ傷害調査の第18回年次報告書によると、高校レベルでの直接的な傷害のうち50%がチアでの怪我である*79。 SGにスタンツはないが、世界各国の米軍基地を訪れる過密日程は同じである。 関節炎のメンバーもいれば、足を骨折したまま出演したメンバーもいた。 ニュージーランド出身の「ジー」は、週に一回病院へ行き、膝から大きな注射器三つ分の水を抜いていた*80。
ショーグループとはDCCの選抜メンバーである。 ショーグループは給与を得た上で、アメリカで非常に大きな名誉とされる、軍事基地への慰問活動を実施する。 またショーグループの営業活動は大手芸能事務所が担当し、全米各地のイベントにも出演する。
無給のボランティア活動とは、孤児院、病院、養護施設等への訪問である。 米軍基地への慰問だけでなく、孤児院、退役軍人病院、養護施設も訪れ、募金イベントの支援など、DCCは様々な慈善活動を実施している。 全米で人気を獲得し、国際的にも露出したDCCはセレブ(有名人)となり、それゆえ、地域社会の代表としての責任を負うようになった。 孤児院への訪問は親がいないキッズだけでなく、DCCにとっても忘れられない思い出となる。 病院では精神科病棟も訪れ、患者から危険な目にあっても、それがセレブとしての仕事だと割り切る。 こういったボランティア活動はチアによる社会貢献活動の先駆けとなり、日本においてもアルビレックスチアリーダーズが積極的に実施している。
孤児院への訪問はDCCにとって忘れられない体験となる。 DCCは年に一度バックナー・バプテスト・チャイルドホームというバプテスト教会が運営する孤児院を訪れる。 孤児院を訪れたDCCは食堂でキッズのためにパフォーマンスを披露し、終了後は一緒に食事を取る。 食事後は女子寮を見学したり、キッズと話をしたり、数時間もサインを続ける。 DCCが最も心を痛めるのは孤児院を去る時である。 バスに乗って帰るDCCの後をキッズが走って追いかけるが、バスが敷地外に出ると鉄柵の門扉は閉じられる。 キッズは鉄の棒に体を押し付けながら手を振り、バスが旋回して通りに出ると、バスを追いかけるためにキッズは鉄柵沿いに芝生の庭を走る。 走っていたキッズはやがて庭の隅にぶつかり、それ以上追いかける事ができなくなり、バスは走り去る*81。
病院への訪問は時に危険を伴う場合もあったが、DCCには誰からも見放された人達を癒やす力があった。 DCCがウェーコ(テキサス州)の在郷軍人局病院(退役した軍人向けの病院)を訪れた時、入院患者から危害を加えられる事件があった。 軍の病院には銃で撃たれた人だけでなく、病気の人も入院している。 というより、戦場では弾に直接当たって死ぬ人よりも、怪我が原因の感染症で死ぬ人の方が多いのである。 それに気づいたナイチンゲールは病室を消毒し死者を減少させた。 また、物理的な怪我ではなく、戦場でのストレスによる精神疾患の患者も入院している。 下半身が麻痺し精神疾患を持った患者をスゼッタ・シュルツが見舞った時、患者に掴まれて顔を枕に押し当てられ、窒息しそうになった。 しかしながら、スゼッタはこれもDCCの仕事の一つであると理解しており、何も言わなかった*82。 また、精神病棟を見舞った時は「私を心配してくれる人など誰もいなかった。」と患者の老人がスゼッタを見向きもせずに言った*83。
DCC以外のチアスクアッドも積極的にボランティア活動を実施している。 例えばデンバー・ブロンコスのポニー・エクスプレスは、ユナイテッド・ウェイ・ランチェオン(デンバーのボランティア団体による昼食会)、入院中の子供向けのクリスマスパーティ、街頭パレードといったボランティアイベントに参加し、マーチ・オブ・ダイムス(ルーズベルト大統領が設立したボランティア団体)、米国がん協会、筋ジストロフィー基金といったボランティア団体のチャリティイベントにも参加した*84。 また、マイアミ・ドルフィンズチアリーダーズはブロワード郡(フロリダ州)図書館の読書啓蒙活動のキャンペーンに参加した。 読書啓蒙活動とは若者に読書を勧めるキャンペーンであり、「私を愛して、私に読んで」と書かれたTシャツを着用した*85。 こういった読書啓蒙活動は、日本でも2011年に川崎フロンターレ(Jリーグ)が「川崎フロンターレと本を読もう!」として実施し、 2018年には秋田ノーザンハピネッツ(bリーグ)も実施した。
無給のボランティア活動はセレブにとっていわば義務である。 あるいは、無給のボランティア活動によって、初めてセレブとなり得る。 孤児院や病院への無給のボランティア活動によってDCCはセレブと認められ、他のチアリーダーズもDCCに続いた。
スザンヌは常識はずれに厳しい人間であったが、メンバーはスザンヌを信用していた。 1970年代半ば、スザンヌはシュラムの秘書としてカウボーイズに加わった。 チアDは片手間として始めたが、スザンヌは天才的プロモーション能力を発揮し、世界的な人気チアへと育て上げた。 スザンヌは気温49度の灼熱でも給水させず、-10.5度の極寒でも上着を着せないという常識はずれの厳しさを持っていたが、 それでも困っているチアは助けた。 2016年、スザンヌはダラスの自宅で死ぬ。 スザンヌが作ったものはプロチアのフォーマットであり、DCCは全てのプロチアの基礎となった。
スザンヌは1943年7月7日にフォートワース(テキサス州)で生まれた。 父親のウィリス・ウィルソン・ミッチェルは民間飛行機のパイロットで、母親のネル・ミッチャムは看護師だった。 オクラホマ大学でジャーナリズムの学位を取得し、その後結婚して、夫と共にニューヨークへ引っ越した。 ただ、この夫とは数年後に離婚している。 ニューヨークではジフ・ディヴィス(出版社)と広告代理店で働き、米国オリンピック代表スキーチームの広報活動をした。 1970年代半ば、紹介されてテック・シュラムに電話をかけた。この時スザンヌはニューヨーク・ジェッツ(NFL)のファンだった。 スザンヌがテックと面接した時、テックは「この5年間で何がしたいのか」と尋ねた。 スザンヌは「あなたの椅子は快適そうですね」と回答し、スザンヌのカウボーイズ入りが決まった*86。
秘書としてカウボーイズに入ったスザンヌは1976年からチアDを担当するようになった。 スザンヌの本来の仕事はシュラムの個人秘書であった。秘書として経理を担当し、選手の契約も実施している。 その後第10回スーパーボウルでの「ハニーショット」が全米を震撼させ、ハリウッド、モデル事務所、広告会社がカウボーイズに電話し、 カウボーイズの電話回線がパンクした。 この時シュラムがスザンヌをオフィスに呼び、次のように言った。 「こんな仕事がある。空き時間にでも頼む。」これに対するスザンヌの答えも「あー、はいはい。」という程度のものであった*87。
最初空き時間の片手間仕事で始めたチアDだが、スザンヌは自身のプロモーション能力を発揮させて本業とした。 「スザンヌは天才的プロモーターであった」と作家のキャンディ・エヴァンスは言い、その一例としてタミー・バーバーのツインテールを挙げた。 タミーは1970〜1980シーズンのチアであり、ツインテールが特徴であった。 このツインテールは本人の意志ではなく「何か仕掛けが欲しい」というスザンヌの意思によって始められた*88。 スザンヌは人々の好みを常にリサーチしており、人々がツインテールを求めていると洞察したのだ。 実際、タミーのツインテールは大きな評判を呼んだ。 ツインテールだけでなく、スザンヌは人々の好みに合致するチアを常に提供した。 スザンヌが人種的多様性を重視したのも、ファンがどの人種であっても、チアに親近感を抱かせるためである。 この高いプロモーション能力に「ハニーショット」という時の運が加わってDCCは全国的な人気となり、スザンヌも専業チアDとなった。
スザンヌは厳しい人間であったがメンバーは皆彼女を尊敬していた。 というのも、DCCの成功の裏にスザンヌがいた事に疑いようはなかったからである。 それゆえ、DCCを卒業したメンバーは各々のキャリアにおいてスザンヌから学んだ手法を用いた。 とはいえ、スザンヌはチアリーダーズよりもカウボーイズ、あるいは、観客を優先させ、厳しい環境での練習を実施した。 また、スザンヌは他人に厳しかったが、自分にも厳しく、昔の怪我で弱った姿をメンバーに見せようとはしなかった。 プライベートでの衣服は地味であったが、DCCのイベントの司会をする時は派手な衣装を着た。 私生活のスザンヌは孤独で空虚であり、老犬を飼っていたものの、DCC関係以外の交友もなく、24時間年中無休でDCCについて考えていた。 しかしながら、スザンヌは深刻な問題を抱えているメンバーを自宅で保護し、支援もしていた。
スザンヌは常に観客の目を意識しており、水を飲む姿を見せたくなかったゆえ、DCCに給水を禁止した。 例えば、練習中の給水を許さず、本番中も給水を禁止した。 本番中の給水を禁止した理由は、給水している姿を客に見せたくなかったからである。 フィールドにはチアが隠れる物陰がなく、給水している姿を双眼鏡で観察される事をスザンヌは嫌った*89。 試合中や練習中のフィールドの気温は時に49度を上回り、練習中に意識を失ったり、痙攣するメンバーもいた*90。 ちなみに、選手は絶えず水を飲んでいた。
暑くても水が飲めない一方で、本番では氷点下の気温でもユニフォーム以外の服の着用を許可しなかった。 タンジェリン・ボウル(大学フットボールの優勝決定戦)のハーフタイムパフォーマンスの練習がテキサス・スタジアムで毎日実施されたが、 この時の気温は-10.5度から-7.2度であった。 この時は練習という事もあり、みぞれ混じりの雨が叩きつけても、DCCはジャージを着用する事ができた。 しかしながら、本番ではどんなに寒くても試合の前半は短パンとホルタートップだけであった。 ジャージを着たいと懇願したメンバーにスザンヌは次のように言った。 「絶対にダメよ!ファンはあなた方のユニフォーム姿を見るためにお金を支払っているのよ。*91」 そう言うスザンヌは狐の毛皮のジャケットを着ていた。
スザンヌは見た目重視でメンバーを選び、時にダンスを見る事なく内定を出した。 スザンヌは5分間のダンスに必要な練習は30時間であると算定した*92。 この算定に基づき、1回4時間の練習を週3〜5回実施した。 この時間に加え、ハイキックの柔軟性を維持するために、毎日のストレッチング・エクササイズも必須である*93。 このように膨大な時間を練習につぎ込まなければならない理由は、ダンススキルではなく、見た目重視でメンバーを決定しているからである。 元DCCのレスリー・ショー・ハチャードは次のように言う。 「見た目だけのメンバーにはこの練習時間が必要ですが、ダンスの才能があれば練習時間は2時間で十分です。*94」 実際、スザンヌはダンスを見る事なく見た目だけで内定を出していた。 DCCは大学の構内でオーディションの説明会を開くが、見た目の良いメンバーは説明会に足を運んだだけで内定が出るのである。 そういったメンバーはオーディションのセミファイナルから参加し、予定通り合格した*95。
スザンヌは自ら言い訳をしない人間であった。 スザンヌは関節炎を患っており、年に1〜2回の頻度で激しい痛みに襲われた。 間接が痛む時は練習を休まざるを得ず、また、そういったコンディションの姿をメンバーに見られたくないと考えていた。 それでも練習に出なければならない場合、スザンヌは杖をつき、金のラメが入ったハウスシューズ(スリッパのような靴)を履いて、 スタンドの一番下の席に座った。 そんな姿を心配したメンバーが声をかけた時、スザンヌは次のように言った。 「私の事は心配無用よ、ヤング・レディ!あなたの仕事は自分のルーティーンを習得する事です。*96」
スザンヌは自分だけでなく他人の言い訳も聞かなかった。 腎臓感染症で入院し、ベッドに寝かされていたベテランメンバー(二年目以降のメンバー)のカレーネ・ミラーがいた。 プロチアチームにおいては、仮に10年間在籍していても、次のシーズンも活動するためにオーディションを再受験する必要がある。 カレーネは8年間腎臓感染症で苦しんでいたが、そういった事実はスザンヌにとって何の意味も持たないものであった。 医師はカレーネにオーディションを諦めるよう指示したが、カレーネは病院のホールで片手にブドウ糖溶液の点滴を付けながらハイキックとスプリットの練習をした。 また、オーディション当日は点滴の針を自分で引き抜き、会場まで自分で車を運転して、DCCを継続すべくダンスを踊った*97。
自ら言い訳をせず、他人の言い訳も聞かなかったスザンヌは、自分が決めた事の理由も語らなかった。 DCCのイベントには給与が支払われる有料イベントと、給与が支払われない無料イベントの2つがある。 スザンヌは有料イベントに自分の気に入ったメンバーを割り当て、無料イベントには綿密に書き込まれたブラックリストに名前が記載されているメンバーを割り当てた*98。 ただ、こういったわかりやすさは例外である。 スザンヌにとってメンバーはパズルの一片にすぎず、誰がどこに割り当てられるのか、また、なぜ割り当てられるのかという理由は常に謎であった。 さらに、スザンヌ自身も詮索されない事を望んだ。 DCCが主演したテレビドラマのラブボート(1979)の撮影時、DCCはハリウッド(カリフォルニア州)のビバリーヒルズホテルに宿泊した。 このホテルには他に有名人も多数宿泊しており、スザンヌはメンバーのボビー・スーとアル・コーリー(俳優)の外出を許可した。 外出とは早い話デートである。 なぜこのような特例を許可したのか誰にも理解できず、スザンヌも何も語らなかった*99。
スザンヌは気に入らないメンバーを補欠メンバーとし、ユニフォームを着用させたまま地下のベンチに座らせた。 補欠メンバーは「オルタネート」と呼ばれ、他のメンバーがフィールドに立つ中、スタジアムの下のロッカールームに座っていなければならなかった。 ベンチに座る補欠メンバーは数人で、ユニフォームを着用し、スザンヌが「今よ、出て!」と呼びに来るのを待った。 当時のフルメンバーは36人であったが、数人の補欠が加わってもたいした違いはなく、実際いくつかのクォーターで スザンヌは全員をフィールドに出した。 また、第1クォーターや第2クォーターで出した後すぐ戻したり、1クォーターも出さなかったりした。 どのような理由で補欠を出し入れするのか、誰にもわからない。 マクリーン・スティーブンソンがテレビ番組の「アメリカ」を撮影した時、地下牢のような部屋のベンチにユニフォームを着て座っている、 4人のチアリーダーズを発見した。 マクリーンは座っていたシェリー・シュルツに声をかけた後、次のように言った。 「私はこのチームの内情を知らないが、これは見たくない光景だ。*100」
普段のスザンヌは地味な格好だったが、ショーに出演する時は派手な衣服を着用し、観客を煽り立てた。 古くて黒いスエットシャツ、ジーンズ、ハウスシューズ、ポニーテールという格好がスザンヌの練習でのスタイルであった。 このスタイルはプロチアリーダーズの練習スタイルとは明らかに異なる。 というのも、DCCやレッドスキネッターズでは練習からフルメイクが求められるからである。 これは、カメラマンが練習をいつも撮影していたからだ*101。 また京都ハンナリーズ(bリーグ)でも美意識の高いメンバーがフルメイクで練習に参加した。 ポニーテールという髪型も問題である。 日本におけるポニーテールはきちんとした髪型の一つであるが、アメリカにおけるポニーテールはスポーティな髪型として認識される。 プロチアはテニスコートでなくラスベガスにふさわしい髪型でなければならないと、プロチアオーディション用の著書を書いたフラビアは言う*102。 普段はこういった格好のスザンヌであったが、イベントに出演する時は、胸元が大きく開き尻が切れ込んだ白いフリンジのレオタード、 白いブーツ、白いカウボーイハットを着用していた*103。 その上で、「DCCのファンは?」と観客を煽り、盛り上がりが最高潮になったタイミングでメンバーの写真を投げ入れた。
スザンヌはプライベートでは孤独な女性であったが、困窮したメンバーを私的に援助したりもしていた。 スザンヌにカウボーイズ関係以外の交友はなく、趣味らしい趣味もなく、その人生においてカウボーイズが全てであった。 結婚はしたがチアDに就任する何年も前に離婚しており、「シュガー」という名前の老犬を飼っていただけだった*104。 スザンヌは非常に厳しい人間であったが、その一方で、困難に直面するメンバーを助けたりもした。 DCCを引退した後、夫とアーカンソーに移住したローリーは結婚生活がうまくいかず、二人の息子達と家を出た。 ローリーは他の家に済むカネもなく、実家にも帰れず、困り果ててスザンヌに電話をした。 ローリーは他の人の紹介を受けるつもりだったが、スザンヌは子供を連れてダラスの自宅にすぐに来るよう言った。 スザンヌはカネ、食べ物、居場所を提供し、離婚手続きと親権訴訟の裁判の費用も払った。 子供達に接するスザンヌは母のようであり、メンバーに接する時とは全く異なる顔を見せていた*105。
スザンヌはハリウッドにおいても独善的な(あるいは毅然とした)態度を取った。 芸能界は一般的な人間の常識が通用しない事がままある。 ハリウッドでラブボート(1979)を撮影したDCCもそういった場面を目撃した。 ラブボートではジェーン・シーモア(女優)と共演したが、ジェーンはDCCから指導されたダンスが自身のキャリア形成に影響すると考え 「これ以上撮影できません。帰って代理人を吊るしあげてやる!」と叫んだ*106。 一方、スザンヌもカメラマンをプールに蹴り落として撮影現場からDCCを退出させた。 こちらはDCCのラインダンスを下からのアングルで撮影したという理由である。 契約には「下から撮影しない」と書かれており、プロデューサーが謝罪。 撮影したカメラマンは解雇された。 この行動をスザンヌは「DCCの価値を向上させるため」と証言している*107。
スザンヌはデビー・ダズ・ダラスの裁判中に命を狙われた事があった。 デビー・ダズ・ダラスの上映に対し、DCCは3人の弁護士を立てて公開中止の訴訟を起こした。 この訴訟にマフィアが関連し、スザンヌはボディガードを雇う事になる。 スザンヌがニューヨークの連邦裁判所に出廷した時、マフィアのカーマイン・ガラントの右腕である、ミカエル・ザッフェラーノに待ち伏せされた*108。 ミカエルがスザンヌのエレベータに飛び乗った時、偶然ボディガードが不在だった。 ミカエルはブーツからナイフを引き抜き、スザンヌの首に突きつけようとしたが、スザンヌはその手を振り払った。 その後エレベータの扉が開き、ミカエルは笑いながら出ていった。
スザンヌは海外に展開している孤独な兵達の母となる事を望んだ。 国防総省のジョン・A・ウィッカム陸軍大将からシュラムに「兵達にクリスマスのエンターテインメントを提供して欲しい。」との電話があった。 当時韓国に駐留する多くのアメリカ兵が自殺しており、癒やしが必要であったが、シュラムはプレイオフを理由に辞退した。 ただ、将軍はチアの必要性を強く主張し、シュラムはオフィスにスザンヌを呼んで意見を尋ねた。 スザンヌは心の底から「行きます。」と回答し、その後連綿と続くチアによる慰問活動が始まった。 DCCと共に世界各国を回ったスザンヌは行く先々でもらった部隊刺繍やバッジを上着に付け、その重量は6kgとなった*109。 スザンヌは兵達の母になる事を誇りに思っており、兵達も実際に「ママ」と呼んだ*110。
スザンヌが非常に厳しかった理由は、70年代当時のチアが指示と規律を必要としていたからである。 スザンヌが活動した1970年代はアメリカで性革命が起こり、自由恋愛が主流となって、グループセックスが流行した。 またクラブでは一晩中パーティが開かれ、ドラッグが蔓延していた。 そういった場所にチアはユニフォームを着て出かけ、深酒して泥酔し、床で眠りこけた。 ユニフォームを着て酒瓶を抱きながら床で寝ている人は、それはその人個人ではなく、ダラス・カウボーイズチアリーダーが床で寝ている事になる。 それゆえ、スザンヌは「ユニフォームを着て酒場へ行くな」というルールを作った。 元DCCのトニー・ワシントンは言う。 「チアがユニフォームを作るのではなく、ユニフォームがチアを作るのです。セレブになったのであれば、セレブにふさわしい振る舞いが必要です。*111」 スザンヌのルールには、「ガム、タバコの禁止」「選手との会話の禁止」「外でブルージーンズをはかない」 「飲みすぎない」「子供みたいに騒がない」「不機嫌な顔をしない」があり、「何が正しいか スザンヌが決める」というものもあった。 こういったルールを作った理由を、スザンヌは次のように証言している。 「チアは指示と規律を必要としました。人々が参加しているこの壮大な大騒ぎの一部でも理解する必要があったのです。*112」
スザンヌは自身の仕事をチアの人間形成であったと総括した。 スザンヌ・ミッチェルは多くの人達から鉄の蝶と呼ばれた。 鉄の蝶とは「鉄の頑強さを持ち、なおかつ、蝶の美しさを持った女」という意味である。 似たような言葉に「鉄の女」がある。こちらは冷戦時代のイギリス首相であるマーガレット・サッチャーに付けられた異名だ。 両者とも鉄のように頑強かつ冷酷であったが、女の美しさがあったばかりに、スザンヌへの反感はさらに強かった。 鬼は女の皮をかぶった時に最も醜くなるのである。 そういった反感に対し「メンバーの観点で考えると私はあまりにも厳しすぎましたが、私の観点においてはそれらは必要でした。*113」と 述懐した上で 「私が成し遂げたたった一つ、かつ、完璧な仕事は、音楽が止まった時に、メンバーがどういった人間になるのか決めた事です。*114」と語った。
2016年9月29日、スザンヌはフレデリックスバーグ(テキサス州)の自宅で死んだ。 死因は膵臓(すいぞう)癌の合併症で、73歳だった*115。 スザンヌは一度結婚したが、すぐに離婚しており、そのプライベートは孤独であった。 それゆえ、19歳と26歳の時にレイプされても、その被害を誰にも相談できなかった。 孤独を知るスザンヌは、メンバーの孤独も自分自身のように感じ取る事ができ、何を必要としているのかも理解できた。 メンバーも、家族には相談できなくても、スザンヌには相談できた。 ばかばかしい程厳しく、信じられない程ハードな人間だったにも関わらず、である。 メンバーを自分の子供のように感じていたスザンヌは言う。 「子供達が立派で完璧な人間になるよう、ずっと考えていました。私はそのように強く信じていたので、全てのエネルギーを注ぐ事は簡単でした。*116」 スザンヌはアメリカの新しい大衆文化を創造し、スポーツのブランド化とマーケティング化を切り拓いた。 これらはプロフェッショナル・チアリーディングのフォーマット化に帰結した。 プロチアとは「(スザンヌが作った)DCCのようなもの」であり、これはその後数十年間変化しておらず、アメリカの国外のプロチアおいても、 依然としてプロチアは「DCCのようなもの」である。
スザンヌ・ミッチェルの功績はプロチアのフォーマットを作った点にある。 スザンヌが生きた時代は女性が権利を獲得し、行使した時代であった。 権利の行使は生活や性の乱れにつながり、スザンヌは極めて厳しい鉄の掟を作ってDCCのブランドを守った。 スザンヌの厳しさに対しメンバーから多くの批判や恨みつらみが出る一方で、愛されてもいた。 その理由は、鉄の掟がDCCを守るだけでなく、メンバーそのものも守っていたからである。 スザンヌによって作り上げられたDCCはプロチアのフォーマットとなり、その後の全てのプロチアに影響を与えている。
テシー・ウォーターマンとはDCCの振付師であり、プロチアを近代的ショーグループに進化させた。 ダラス生まれのテシーはニューヨークでジャズダンスを学び、「テシー・ウォーターマン・スタイル」を確立した。 DCCの振付師となったテシーは自らのスタイルをそのまま反映させるのではなく、何もかもが大きいテキサスにふさわしい、大きなムーブのダンスを作り上げた。 大きなスタジアムでの大きなダンスは応援集団だったプロチアを近代的ショーグループに進化させ、DCCに追随した他チームも近代化した。
テシーはニューヨークでジャズダンスを学び、長年にわたってブロードウェイでパフォーマンスを披露していた。 テシーはダラスで生まれ、18歳の時にニューヨークに出て、ピーター・ジェンナーロ(ダンサー)や ニコ・チャリシー(ダンスインストラクター)と共にジャズダンスを学んだ。 ブロードウェイ(ニューヨーク州)では「マイ・フェア・レディ」のオリジナルキャストとなり、次いでイモジーン・コカ(コメディアン)と 「ワンダフル・タウン」で共演した。 「ワンダフル・タウン」出演時にアルテ・ジョンソン(コメディアン)と出会い、最初の結婚をした。 シド・シーザー(俳優)のショーにも出演し、ニューヨークでの仕事がない時は、各地を旅してミュージカルやナイトクラブに出演したり、 劇団の夏季公演に出演していた*117。
テシーはジャズのスタイルを発展させ、全てが大きいテキサスにふさわしい、大きなステップ、大きなムーブ、大きなキックのダンスを作り上げた。 テシーは偉大なジャズダンサーであり、同時に偉大な振付師であった。 テシーの偉大さは「テシー・ウォーターマン・スタイル」と言っても良い、独特のスタイルを確立した点にある。 こういった独自性はマーサ・グラハムやポーラ・アブドゥルといった他の偉大な振付師達も持ち合わせていた。 テシーはニューヨークスタイルのジャズダンスの創始者であったが、それをそのままDCCに持ち込んだわけではなかった。 テシーは車も食べ物も何もかもが大きいテキサスに合わせて、大きなステップ、大きなムーブ、大きなキックのダンスに改変したのである。 大きなフィールドに映える全てを誇張した大きなダンスは、DCCのスタイルとなった。
テシーの作り上げたダンスはDCCを近代的ショーグループに進化させ、DCCに追随した他のプロチアも近代的となった。 プロフェッショナルチアリーダーズ・スクアッドの本質は、チアリーダーズ・スクアッドではなく、ダンス・スクアッドである。 プロチアを応援集団から近代的ショーグループに進化させたダンスがDCCのダンススタイルであり、 テシー以前にスポーツチームのダンススクアッドは存在しなかった。 テシーはスポーツ・エンターテインメント・ダンスの創始者であり、他の人達はその足跡を辿っているにすぎない。 例えば、ロサンゼルス・レイカーズ(NBA、カリフォルニア州)のポーラ・アブドゥルであってもその影響を受けている*118。 他のチームもDCCにならってジャズダンスを取り入れ、応援集団からダンススクアッドへと近代化を果たした。
テシー・ウォーターマンの功績はプロチアを近代化させた点にある。 テシー以前のDCCはチアリーダーズ・スクアッドであったが、テシー以後はダンス・スクアッドとなった。 この変化に他のチームも追随し、プロチアは全てダンス・スクアッドとなって、近代化を果たした。
DCCはポスター等のグッズを世界中に販売したが自らの取り分はなく、給与も少ないのに自腹でゴージャスに見せなければならない。 1977年に発売したポスターは空前の販売数を記録したが、チア個人の収益はなかった。 その後チアに水着カレンダーを5ドル買い取らせ、サインを入れた上で15ドルで販売し、差額をチアが得るという手法が生まれたが、 売れなかった時の損害はチア個人が丸抱えするという問題が発生した。 チアの給与の低さは訴訟にまでなっている。 収入はほとんど無いにも関わらず、チアはプライベートでもゴージャスに見えなければならず、ますます生活を苦しくさせている。
DCCのポスターは歴史上最も売れたポスターの一つとなり、その他、生写真や多くのグッズも販売された。 1977年、セクシーなポーズをとるダラス・カウボーイズチアリーダーズのポスターが発売された。 ポスターは棚に置く前に次々と購入され、歴史上最も数多く販売されたポスターの一つとなった*119。 ポスターはファラ・フォーセット(女優)のポスターよりも人気となり、DCCのメンバーが通う大学の社交クラブにも貼られていた。 「社交クラブでは誰もがテレビで試合を見ており、そのテレビの後ろに私達のポスターが貼られていました。 社交クラブのエリート達は皆チアリーダーズにうっとりとしていました。*120」 ポスター以外にも、生写真、トランプ、人形、フリスビー、宝飾品、Tシャツ、シール、風船ガム、トレーディングカード、ブーツ、 キャップ、ジグソーパズル、子供服などがあった。 ダラスからタラハッシー(フロリダ州)までのシアーズ(デパート)はチアリーダーズが一列に整列したポスターを店中に貼り付けて これらのグッズを販売し、また、アメリカだけでなく世界規模で発売された。 実際のところグッズ販売こそがチアの最も儲かる利用方法であるが、どれだけ売れてもチア個人の収益は全く無い*121。
DCCは水着カレンダーも販売したが、チアにカレンダーを買わせてファンに販売させる手法には問題がある。 プロチアの給与は低い。NFL26チームのうち最低賃金を支払っていないチームは1つ、一切カネを出していないチームは6つある*122。 契約書には「シーズン終了時に報酬が全くもらえない結果になる可能性がある。」とも書かれている*123。 DCCであってもショーグループと呼ばれる選抜メンバーや、千葉ジェッツ(bリーグ)の選抜メンバーしか固定給を得ていない。 それでいて、ポンポンを忘れたり遅刻すると15〜125ドルの罰金である。 プロチアは、チア活動を踏み台としてダンス教室のオーナーになったり、テレビ番組のスター、プレイボーイ誌のモデルになる野望があるため、 その大半はプロになれただけで満足する。 この金銭的境遇を改善させる手段として登場したのが水着カレンダーの手売り営業である。 レイダレッツ(オークランド・レイダーズ、NFL、カリフォルニア州)はチアに5ドルで水着カレンダーを販売し、チアはサインを入れて15ドルでファンに販売する。 10ドルがチアの利益になるが、この方法には問題がある。というのも、売れなければチアが損害を丸抱えするからである。 日本の郵政公社においても職員に年賀状を買わせて自己営業させたが、職員は営業する事なく年賀状を金券ショップに持ち込み、 差額の損害を自分で抱えた。 チアの本業とはコート内外でのパフォーマンスであり、手売り営業ではない。
最低賃金すら届かない報酬のチアはNFLチームを相手に訴訟を起こし、他のチームのチアも続いた。 2014年1月、レイダレッツのレイシーがチア契約書を弁護士に見せ、それが最低賃金を満たしていないと全米で話題になった。 レイダレッツの報酬は1試合125ドルであり、リハーサル・練習・慈善イベントは無給である。 ユニフォームのクリーニング代は自前であり、体重が増えると「ベンチ入り」となり報酬はない。 訴訟にはレイダレッツOGも参加し、レイシーが過去四年間に初属していたチア全員を代表する集団訴訟となった。 また、入団四年目で現役メンバーのサラも訴訟に加わった。「これはダンスが好きという夢をネタにした策略です。*124」 この集団訴訟は2015年9月に和解し、チアに1,253ドルが支払われる事となった。 その後も、シンシナティ・ベンガルズ(NFL、オハイオ州)、バッファロー・ビルズ(NFL、ニューヨーク州)、 タンパベイ・バッカニアーズ(NFL、フロリダ州)のチアが次々と訴訟を起こしている。 訴訟を受けて、NFLはチアの契約条件を一律にする事を検討している。 またこの問題は議会でも取り上げられた。 カリフォルニア州議会のロレーナ・ゴンザレス下院議員は待遇改善のための法案を提出し、 チアの才能を食い物にしていると億万長者のオーナー達を厳しく批判した*125。
DCCはプライベートであってもゴージャスに見えなければならず、多くの出費を必要とした。 1990年のレッドスキネッターズ(ワシントン・レッドスキンズ、NFL、ワシントンD.C)には次のような行動規範が存在した。 「レッドスキネッターズのジャケットやネックレスを着用している場合、メイクも髪も整えずに公共の場に出る事は不適切である。」 また、スクアッドのメンバーがレッドスキネッターズのアイテムを身に着けている場合「口汚い言葉、喫煙、チューイングガム、飲酒、薬物の使用」を禁じられた*126。 DCCはさらに厳しく、セブンイレブンでパンを購入する時であっても、ランウェイを歩くモデルのように見えなければならないとされた*127。 モデルのように見えるには、メイクと服に莫大なカネをかけなければならない。 当然そのカネは自費であり、車社会のアメリカにおいて、ガソリンすら給油できないほど困窮したDCCも存在した*128。
DCCのポスターやグッズは世界中で販売されているが、チアの取り分は全く無い。 水着カレンダーを手売りで売って、サイン代を得る程度である。 チアの給与問題に関しては訴訟が起こされているが、いまだ解決のめどが立っていない。 文化を向上させ、良い意味での気取りを見せるには多少の背伸びが必要である。 しかしながら、この収入でプライベートもゴージャスに見せるのは無理がある。
DCCには有料のイベント出演と無料のイベント出演があり、有料のイベント出演は極めて高価である。 というのも、出演料が高いだけでなく、移動の飛行機はファーストクラス、迎えの車はリムジン、ホテルは最高級でなければならないからだ。 DCCがイベントに出演すると数万人の人達が集まったが、メンバーの稼働率を考慮し、その依頼の90%は断っている。
有料イベントでのDCCは極めて高価である。 DCCのイベントには有料と無料の二種類が存在する。 有料イベントはチアの仕事の一つであり、チームが費用を請求し、チアへの出演料も支払われる。 チームが請求する出演料は1970年代でチア一人あたり500ドルであり、加えて、「一流」として扱わなければならない*129。 DCCを乗せる飛行機の座席はファーストクラスでなければならず、空港までの迎えはリムジンが必要だ。 リムジンを用意できない場合、車のナンバー、メーカー、車種を事前に申告する必要がある。 宿泊するホテルは最高級を用意し、警備員はグループ全体で最低2名が必要であり、氏名とバッジ番号の事前申告もしなければならない。 無料イベントはボランティア活動であり、SGを除けば出演料は支払われず、チアDのブラックリストに掲載されているチアが出演する。
DCCの出演料は高価であるが、数万人の集客効果があり、また、カネ持ちが個人でDCCを呼ぶ場合もある。 スポケーン(ワシントン州)のショッピングセンターでのイベントでは客の後ろが見えないほど人が集まり、 DCCは指から血が出るまでサインを書き続けた。 スパルタンバーグ(サウスカロライナ州)のウエストゲート・ショッピングモールではDCCを見るために45,000人が集まった。 また、メンフィス(テネシー州)ではカネ持ちが個人でDCCを呼んだ。 カネ持ちはDCCのために、飛行機、レストランでの昼食、ホテルを手配させ、スタジアムを貸し切った。 貸し切りのスタジアムに客は1人もおらず、そのカネ持ちと、カネ持ちのボディガードと、8人から9人のカネ持ちの友人だけがいた。 カネ持ちはDCCの宣伝を一切していなかったが、街の人達はDCCの到着を知っており、スタジアムの外には10,000人が取り巻いた。 DCCはカネ持ちとその友人のためだけにパフォーマンスを披露したが、その総費用として50,000ドルが必要であった*130。
DCCのイベントはあまりにも多くの人が集まって大混乱となったり、ファンの一部が暴徒と化したりもする。 オマハ(ネブラスカ州)のサウスマーク・モールのオープニングイベントにDCCが参加した時、あらゆるスペースに人が集まり、 駐車場の外にまで溢れていた。 DCCが一階のステージでパフォーマンスを終え、サイン会を始めると、二階で見ていた人達が写真を取ろうとして後ろから押し寄せてきた。 キッズが人とステージの間に押しつぶされそうになり、DCCがキッズを掴んでステージに引き上げた。 またDCCの父親がビデオカメラで娘を撮影していた時、警備員の一人がカメラを武器だと勘違いして「銃を持っているぞ!」と叫んだ。 警備員の叫びを聞いて6人の警察官がただちに跳びかかり、父親は地面に押さえこまれた。 その様子を見ていたDCCの娘は仰天し、「その人は私の父です!」と叫びながらステージを飛び降りて、警察官を引き剥がした。 タンジェリンボウル(大学フットボールの大会)に参加した時、集まったファンを突破してバスに向かうため、 警備員が腕を繋いで人間の鎖を作った。 この時、ファンが暴徒と化し、DCCが身に付けていたものを奪い取ろうとした。 さらに、暴徒の一人はハサミを持っており、ミシュランの髪をバッサリと切り取ってしまった*131。
こういったイベント出演はいくらでもあったが、「燃え尽きる」事を危惧し、その依頼の90%を辞退した。 DCCチアディレクターのスザンヌは次のように証言する。 「我々の販売促進をするために、私が誰かに問い合わせをしたり、どこかへ出かけた事はありません。相手が常に我々の元へと来ました。ビジネスをしたいと頼んだ事は一度もないし ... 依頼の90%は辞退しました。*132」 また、1990年代のDCCのチアディレクターであるレスリー・ハイネスも数百の「マーケティングアイディアと広告案」を拒絶し続けた。 その理由は、外部のイベント出演等によってDCCの稼働率が上がり、燃え尽きてしまう事を危惧したからである*133。 人気のあるチアリーダーズはどこも似たような状況であり、各種メディアを含め、これ以上の露出を必要としていない。 例えば、ロサンゼルス・ラムズチアリーダーズのチアディレクター、マーディ・メッダーズは次のように述べた。 「これ以上のメディア露出が必要だろうか?今年のチームはUSO(ユナイテッド・サービス・オーガニゼーション、軍人向けのエンターテインメントを提供する非営利団体)ツアー、農業祭り、チャリティ、ファッションショーなど400の露出がある。*134」
DCCの出演料は高額であるが、それでも人々はDCCを呼びたがる。 というのも、DCCは人を集める事ができるからである。 それどころか、人が集まらなくてもDCCを呼ぶ。 自分だけが楽しむために、50,000ドル以上を支払ってDCCを呼んだカネ持ちもいる。 しかしながら、DCCは燃え尽きる事を危惧して依頼の90%を断っている。
DCCは、監視、不適切な手紙、危険物のプレゼントといった、ストーカー問題を抱えていた。 この手の問題行動として、メンバーの家までファンが押しかける事があった。 特に、電話帳に住所も掲載されていた時代は簡単に家まで行く事ができた。 タミーの家までファンが来たので追い返すと、就寝時に「おやすみ、タミー」という電話がかかってきた。 その電話が3日連続でかかってきた時、タミーは引っ越しをした*135。 キャリー・オブライアンの場合、ファンが屋根に登って煙突からこう叫んだ。 「キャリー、僕はフィリップだ。君に会いたい。僕達はお似合いだよ。*136」 また、スザンヌはメンバーに送られてきた手紙を事前にチェックしていた。 手紙の中には、ムチを持ったスザンヌが吊るされたメンバーを叩いているイラストが描かれているものもあった*137。 ビリー・ミッチェルにはナイフが送られて来た。 ナイフはピッツバーグ・スティーラーズ(NFL、ペンシルベニア州)の新聞紙に包装されており、 「親愛なるビリー 私の愛の女神」と書かれたメモも一緒に入っていた。 スザンヌは私立探偵を雇い、ビリーの家を監視させた*138。
テシー・ウォーターマンが退社し、カウボーイズのオーナーが交代し、スザンヌとシュラムがチームを去った事により、DCCの黄金時代は終わった。
1982年、テシー・ウォーターマンの退社がDCC黄金時代の終わりの始まりとなった。 テシーはDCCにグラマラスなジャズダンスを導入し、チアリーダーズを無骨な応援団からブロードウェイ・ダンサーズに変化させた。 1982年、テシーがカウボーイズを去り、その才能もDCCから失われた。 テシーの後任は元チアリーダーのシャノン・ベイカーだったが、シャノンはクラシックバレエを得意としていた。 チアリーディングにおけるバレエの問題点を、チアオーディションの本を書いたフラビアは次のように言う。 「白鳥の優雅さでプロチアオーディションのフロアに立った場合、他の受験生と比較して柔らかすぎる印象となるでしょう。*139」 テシーのDCCは大きく大雑把な動きであったが、シャノンのDCCは小さく正確な動きとなった。 これにより、フットボールフィールドという巨大なステージにおいて、DCCのダンスは目立たなくなった。 ステファニーは次のように言う。「チアリーダーズは一晩にして力と魅力を失いました。そのダンスにかつての力強さや華やかさはなく、生命力を感じさせないわざとらしいものとなりました。*140」
決定的な転機は、カウボーイズのオーナーの交代である。 中東戦争によって原油価格が上昇し、油田があったテキサス州はバブルを謳歌した。 スザンヌとDCCの黄金期もそのバブル期と重なる。 しかしながら、原油価格の下落によってバブルは弾け、テキサス州の経済も崩壊した。 カウボーイズのオーナーだったクリント・マーチソンも大部分が不動産だった債権が焦げ付き、1984年に法廷で破産が宣告された。 マーチンソンは、1960年に購入し24年間をかけて「アメリカのチーム」に育て上げたカウボーイズを売却せざるを得なくなった。 新たにカウボーイズを購入したのはバム・ブライトが率いる合資会社の11人である。 マーチンソンが60万ドルで購入したカウボーイズは、チームとスタジアムのリース料込みで、8,000万ドルの値段となっていた。 しかしながら、ブライトにも土地の不良債権化と原油価格の急落が直撃した。 1989年2月25日、ブライトはカウボーイズを2億ドルでジェリー・ジョーンズというアーカンソー州のビジネスマンに売却した。 カウボーイズを購入したジョーンズが最初にした仕事は、チームをスーパーボウルに5回導き、2回優勝させた、トム・ランドリー監督を 解任する事であった*141。
1989年5月8日、スザンヌはチアDを辞任し、テック・シュラムと共にカウボーイズを去った。 ジョーンズはDCCの鉄の掟を破棄した。 チアは酒の席に同席させられ、ビールのCMにも出演し、さらに露出の多いコスチューム(ぴっちりとした自転車ショーツとホルタートップス)が 求められ*142、ユニフォームを着た上でシュラムとビジネスパートナーが乗る共に飛行機に同乗する事になった*143。 選手との恋愛禁止も解禁されたが、チアは選手よりもカネ持ちの男の愛人となっており、ほとんど影響はなかった*144。 同時に、テック・シュラムもジョーンズから冷遇されるようになった。 テックはスザンヌが求めるもの全てを14年間提供してして来たが、そうもいかなくなった。 新しいコーチ陣が練習場に派遣されたが、そのコーチ陣は酒を飲んで練習に来ており、チアにも色目を使った。 そういったコーチをスザンヌは練習場から叩き出した。 そのような事もあり、ジョーンズが来てからの4ヶ月間でスザンヌはここにいるべきではないと考えた。 スザンヌは言う。「DCCはアメリカのチームですが、今はジョーンズのチームです。*145」 また、当時を振り返ってこうも言う。 「ジョーンズは自身の時代を創造したかったのだと思います。あるいは、他の人が作った時代を破壊したかったのだと思います。私は他の人が作った時代の要素を多分に含んでいました。*146」 1989年5月8日、スザンヌはテック・シュラムと共にカウボーイズを去った。その後、スザンヌがチア関係の仕事に戻る事は二度となかった。
スザンヌと共に14人のチアが辞め、DCCの黄金時代も終わりを告げた。 チアDと共にチアも辞める現象は珍しくない現象である。 例えばbjリーグ京都ハンナリーズでも09-10シーズン終了時に発生し、チアDと共に16人中13人が辞めた。 またbjリーグ西宮ストークスでも17-18シーズン終了時に、チアDと共に10人のチア全員が辞め、ユースチームも解体された。 京都の事例を追跡すると、同時に卒業した13人中1人は、同チアDの別のチーム(名古屋オーシャンズ、Fリーグ)のプロチアとなった。 また、翌年に卒業した1人はチアDのいる名古屋に引越ししてチアを続け、名古屋で結婚もしている。 DCCにおいても、スザンヌ・カルチャーを受けた36人中14人が同時に辞めた*147。 その中の一人、シンディ・ヴィラレアルは、水着カレンダーにも選ばれ、トロイ・エイクマン選手とマッチデー・プログラムの表紙を 飾った事もあるトップチアであったが、全てを捨てて辞めた。 ダラスのバブルが弾け、スザンヌが辞職し、そのチルドレンが14人辞めた事により、DCCの黄金時代も幕を下ろす。 スザンヌに指導を受けたスゼッタは当時を回顧して言う。「単にチアリーダーになる事とは違っていました。それは人生を生きる技術でした。『私はできる』という、ポジティブ・エネルギーを学ぶ事でした。*148」 スザンヌの後継としてデビー・ボンドがチアDに就任した。デビーは辞めた14人の1人であった。 ジョーンズは抗議の辞職に反応した人々に影響され、4日後、DCCの鉄の掟とユニフォームを全て元に戻した*149。
DCCの黄金時代はダラスを狂乱させた石油バブルと共にあった。 中東戦争が終わり、原油価格が急落し、石油に依存したダラスの経済が破綻し、 目がくらむような輝きを放っていたDCCの黄金時代も夢のように消え去った。 後に残ったのはテキサスの魂だけだった。だが、この魂だけは不滅であった。 黄金時代に形成されたDCCの魂は、その後全てのプロチアに影響を与え、現在も生き抜いている。
DCCがプロチアリーディングのフォーマットを完成させ、他のプロチアチームはそのフォーマットに沿ったチームを作っていった。 DCCの成功を目の当たりにした他のNFLチームは、急いで「DCCのような」ダンスチームを立ち上げた。 1978年に現役チアリーダーズがヌードグラビアに登場し、その余波でいくつものチームが解体されたものの、 チアリーディングはアメリカの大衆文化として根付いた。 プロチアリーディングはNFLだけでなくNBA(プロバスケ)やサッカー、アイスホッケーなどにも広がっている。
DCCの成功を目の当たりにした他のNFLチームは、DCCのようなダンスチームを急いで立ち上げたり、高校生チアリーダーズを置き換えたりした。 1978年、ワシントン・レッドスキンズは、VネックとAラインジャンパーという大学生チアのようなユニフォームを変更し、 DCCを意識した露出の多いユニフォームを採用した*150。 露出の多いユニフォームで観客を性的に誘惑すれば、自身のホームゲームのハーフタイムショーをさらに刺激的にできると、 他のNFLチームも気づいた。 これにより、控え目で露出の少ない高校生応援団は置き換えられ、挑発的で露出の多いDCCのようなダンスチームが続々と誕生した。 ただ、いくつかの例外もあった。そのうちの一つが1981年のフィラデルフィア・リバティベルズである。 リバティベルズは「セクシーかつ伝統的なチアリーダーズ」をアピールするために、大学生チアのような 「アンゴラ山羊のレターセーター(名前が書かれたセーター)とプリーツの付いたスカート」をあえて採用した*151。 また、1990年のデンバー・ブロンコスとインディアナポリス・コルツのプレシーズンゲームでは、チアと選手がユニフォームを交換し、 チアが巨大なプロテクターを身に着けた*152。 1980年、「デンバー・ポスト」誌のスポーツライターのスティーブ・キャメロンは、「サイドラインにおけるゴーゴーダンサーズ」の「一時的な流行」は「消え去る」と書いた*153が、消えるどころか、「DCCのような」チアフォーマットは全てのプロチアに影響し、変わる事なく現在に至っている。
1980年、チアがヌードグラビアに掲載され、デンバー・ブロンコスのチアチームが解体された。 DCCのOGがプレイボーイにトップレスで掲載された事があったが、現役がヌードグラビアに掲載された事はなかった。 しかしながら、1978年にデンバー・ブロンコスの2人の現役チアリーダーズがプレイボーイに掲載され、議論を巻き起こした。 1979年、今度はデンバー・ブロンコスの別の2人のチアがプレイボーイに掲載された。 この時チームはその2人を解雇し、翌1980年にはチアチームのポニー・エクスプレスそのものを解体した。 サンディエゴ・チャージャーズのリタ・シリングがグラビアに掲載された時も、本人だけでなく、メンバー全員が解雇された*154。 デンバー・ブロンコスの広報ディレクターであるジム・サッコマノは解体要因を「ネガティブな宣伝」と言う*155。 また、シカゴ・ベアーズ(NFL、イリノイ州)のジャッキー・ロールは、チームを解雇された時に次のように言った。 「ポスター写真を撮影をした時、プッシュアップブラを付けて胸の谷間を多く見せるよう、チームは私達に言った。そうであるにも関わらず、私がヌード撮影をしたと耳にすると、チームは不快感を示した。*156」 チームにとって自らが管理する性は「ポジティブな宣伝」だが、そうでない性は「ネガティブな宣伝」となるのである。
NBAもNFLと似たような状況であり、DCCのように性を使って観客を集め、DCCから影響を受けたダンスを披露している。 NFLとNBAの基本的なチアスタイルは同じである。NFLはDCCの影響をより強く受けており、ジャズが中心のグラマラスなスタイルである。 一方、NBAはややスポーティであり、競技的なスタイルである*157。 ただし、NFLと同様に、NBAも性を使って観客を集めている。 アトランタ・ホークス(ジョージア州)がチアリーダーズの採用を検討した時、ホークスのプロモーションディレクターは次のように言った。 「逮捕されないレベルで、可能な限り布面積の少ないユニフォームを着せようと考えています。*158」 NFLの伝説的振付師がテシー・ウォーターマンであるのならば、NBAの伝説的振付師はポーラ・アブドゥルである。 ただ、そうであってもポーラのロサンゼルス・レイカーズ(カリフォルニア州)もDCCの影響を免れ得なかった*159。
XFLもチアリーダーズを採用したが、その活用には失敗した。 XFLとは2000年にNFLに対抗して誕生し、1シーズンで終了した、もう一つのプロフェッショナル・フットボールリーグである。 XFLはテック・シュラム以上にテレビでのフットボール観戦を重視していた点が特徴であったが、低視聴率を挽回するために、 チアリーダーズが着替えを行うロッカールームにカメラを設置した*160。 XFLロサンゼルス・エクストリームのチアリーダー、ボニー・ジル・ラフィンは次のように言った。 「全国放送のテレビで映されたチアリーダーズは、まるでストリッパーのようでした。なおかつ、ドレッシングルームで休憩する事もままなりませんでした。*161」 プロチアには性と健全、あるいは、悪徳と美徳のバランスが重要であり、その焦らしが男を引きつける。 それゆえ、XFLのような性と悪徳だけのチアリーダーズは単なるストリッパーとなってしまい、男の興味を失った。
DCC以後のプロチアリーディングはDCCが作り上げたフォーマットに沿うだけとなった。 DCCの成功により、他のチームも大急ぎで自チームをDCCっぽく変革させた。 DCCはプロチアのフォーマットとなり、NFL以外のスポーツも含めて、全てのプロチアがDCCの影響を受けている。
プロフェッショナル・チアリーディングは高校生のボランティアから始まり、若い女性のグループに入れ替わって、 ダラス・カウボーイズチアリーダーズを産んだ。 DCCはスザンヌ・ミッチェルとテシー・ウォーターマンという才能とダラスの石油バブルという時勢により、黄金時代を迎える。 DCCの黄金時代は石油バブルの崩壊と共に消え去ったが、ジャズスタイルのダンスや恋愛禁止の鉄の掟等、 全てのプロフェッショナル・チアリーダーズのフォーマットとなって現在に至る。
日本のチアはアマもプロも独自の進化を遂げており、アメリカのチアとは本質的に異なる存在となっている。 アマチアはリーディング(指導)ではなくチア(応援)を重視するよう進化し、誰かを応援する気持ちを持つようになった。 これは「政治家になって愚民を指導してやる」ための足がかりとしてチアになるアメリカと、大きく異なっている。 プロチアははんなりんによってチア個人の個性を重視するよう進化し、アイドルと変わらない存在となった。 これは「健全とセクシー」を「健全とかわいい」に置き換え、日本でも受け入れられるように変質させた、DCCに相当する革命である。
アマチアはチアリーディングのリーディング(指導)ではなくチア(応援)を重視するよう進化し、現在に至る。 アメリカのチアの本質はチア(応援)ではなくリーディング(指導)である。 しかしながら、応援団の付属品として始まったアマチアは、アメリカのチアの表面を模倣したチアガールにすぎなかった。 その背景には日米の文化的相違が存在する。 アメリカは一部のエリートが愚かな大衆を導く(リードする)格差社会の文化だが、 日本は似たような人達が話し合って進路を決める合議社会の文化である。 アメリカは少数の天才と大多数の愚民に分かれているが、日本は全員そこそこであり、強力な指導者を必要としていないのだ。 それゆえ、チアガールはリーディング(指導)ではなく、チア(応援)を重視する方向に発展した。 表面的な模倣だったチアガールが応援する心を持つようになり、それによって現代的アマチュアチアリーダーが誕生した。
プロチアは「健全とセクシー」から「健全とかわいい」に変化し、アイドル化して現在に至る。 三田智子や齋藤佳子といった日本人NFLチアの先駆者達が、プロチアを日本に受け入れられやすい形に改良して持ち帰った。 その形とは「健全とセクシー」の健全さだけをピックアップするというものである。 しかしながら、健全だけでは男性は食いつかず、結果的にチアの表面を模倣するだけにとどまった。 この状況にDCC的革命を起こしたのが京都ハンナリーズのはんなりんである。 DCCの本質、すなわち「健全とセクシー」の本質とは「アメリカン・スイートハート」であり、恋人である。 はんなりんはファンの恋人となるべくチア個人の個性を強調させた。 個性の強調とはアイドルがファンの恋人となるべく実施している手法であり、そのキーワードは「セクシー」ではなく「かわいい」である。 ここに「健全とセクシー」は「健全とかわいい」に変化し、はんなりんはアイドルと本質的に同じ存在となった。 個性の強調による人気の獲得は日本では馴染みが深く、以後全てのプロチアがアイドル化するようになった。
日本のチアリーダーズは、アメリカのチアの表面だけを真似た、チアガールから始まった。 しかしながら、チアガールは独自に発展し、指導者(リーダー)を主目的とするアメリカとは異なり、応援(チア)を主目的とする日本的チアリーダーズが誕生した。 日本がよりアメリカ的社会に近づいていくのであれば、応援目的は指導者目的へと変質する可能性がある。
日本では応援団の付属品としてチアガールが始まった*1。 男性が主導権を持つ応援団の中におけるチアの役割とは、指導者ではなく、単なる性の主張であった。 これは日本におけるチアリーダー(応援指導者)は、えてして、チアガール(応援少女)と呼ばれる事に体現している。 皮肉な事に、チアガールはある程度本質を突いている。 というのも、日本において「政治家になってやる」と志した人が、「よし、まずはチアリーダーになってやる」と考える事は まずないからである。そういった人は政治家の秘書になる程度だ。 アメリカでは愚民の指導者が政治家であり、烏合の衆に過ぎない観客を指導するチアリーダーズは、愚民を指導するリーダーの練習として 認知されているのである。 指導者(リーダー)ではない女の子(ガール)が応援(チア)すれば、それはチアガールと呼ばれてもやむを得ない。
チアガールはアメリカのチアの表面だけをマネたものであり、実際的な害として、チアリーディング中における怪我が続出した。 日本ではまず形から入る。形から入って本質へたどり着けば良いが、多くは形だけで終わる。 ニュート・ローケンの初期のチアリーディングマニュアルにはチアリングの原理原則が書かれていた。 「広範囲に動くために幅を取り ... 観衆から少し離れる事。手を開いて腕を伸ばしたままキープし ... 応援中は終始観衆の方を見て ... フリップ、ロール、ハンドスプリングを含めて、可能な限り多くのチアーズを生き生きと実施する事。*2」 この原理原則の統一性を重視し、ブルース・ターボルドは次のように言った。「良きチアリーディングスクアッドを作るために最初にすべき事は、メンバーが一緒にトレーニングを実施する事である。トレーニングは可能な限り近い位置で同じ動作をするのが良い。この時目立ちたがり屋がいてはならない。スクアッドの全員が1つの合図による動作、ジャンプ、エールができる事。*3」 その10年後、メアリー・ハンフリーとロン・ハンフリーは、ブルース・ターボルドの正確性、統一性、鋭い動き、アイコンタクトを 引き継いで次のように言った。「パフォーマンスを実施する場合、顔の向きは観客の方向しかない。体が横に向いていたり動いている場合であっても、顔は肩越しに観客へ向ける事。*4」 日本のチアガールが引き継いだのは、最後のアイコンタクトによる観客へのアピール技術だけだった。 その結果身体的鍛錬を怠り、練習やパフォーマンス中の怪我が続出した*5。
チアガールは日本の価値観に合わせて作り直され、ヨーロッパと同様にアメリカ的価値観と距離をおき、チアリーダーとして発展した。 日本的価値観とは平等社会である。 最澄(さいちょう、比叡山で修行した高僧、767〜822)の大乗仏教は「草木ももれなく成仏する」という極端なまでの平等思考を生み、 これが日本的価値観の基盤となっている*6。 一方、アメリカ的価値観とは階級社会に端を発する格差社会である。 日本やヨーロッパ諸国は「エリートが愚民を指導する」価値観とは相容(あいい)れず、その必要性もなければ関心もない。 格差社会の価値観の裏にはエリートが全ての利益を独占する価値観があり、これがアメリカ以外では受け入れられないのである。 それゆえ、見た目から入ったチアガールは、そのままアメリカ的価値観に追随する事なく、日本的価値観を持ったチアリーダーに発展した。 日本的価値観を持ったチアリーダーとは、活動の重点を指導者(リーダー)でなく応援(チア)とするチアリーダーである。 その本質は「思いやりの心」であり、現代日本のチアリーダーは、見た目だけのチアガールやアメリカ的チアリーダーとは明らかに異なっている。
格差社会の進行により、日本的チアリーダーがアメリカ的チアリーダーとなる可能性は十分高い。 アメリカ、フットボール、チアリーダーズは本質的に同じである。 アメリカとは少数のエリートが多数の愚民をリードする国であり、 フットボールとは一人のクォーターバックがその他大勢のポジションをリードするスポーツであり、 チアリーダーズとは少数のエリートが多数の観客をリードする活動である。 日本の格差が進行してアメリカ的格差社会が到来した時、日本人のほとんどは愚民となるであろう。 この愚民がどの程度愚民かと言うと、5%引きといったパーセンテージの計算ができないレベルの愚民である。 アメリカでよく見られる「2つ買ったらもう1つおまけ」とは33%引き(1-2/3=0.33)を理解できない人に向けている。 日本でも似たような事例を、20回に1回は全額返金というキャンペーンに見る事ができる。 20回に1回は全額返金というキャンペーンと、5%返金というキャンペーンの期待値は全く同じである。 (5万円の買い物の場合、全額返金の期待値は5万円×1/20+0円×19/20=2,500円で、5%返金の期待値は5万円×5/100×1=2,500円) そうであるにも関わらず、愚民は全額返金に飛びつく。 スマホガチャも似たような事例であり、「100回に1回は大当たり」に飛びつき、100回引いても当たらなくて文句を言う。 (この場合、36.6%の人は100回引いても当たらない。1回引いて外れる確率は99/100なので、100回引いて100回外れる確率は(99/100)^100≒0.366。) 「全額返金」「スマホガチャ」に飛びつく愚民のステージが進行すると、「もう1つおまけ」になるのではないだろうか。 日本人のほとんどが愚民となった時、そういった人達を指導すべく、チアリーダーズの役割が変化してもおかしくはない。
アマチアの課題は統一機関の設立である。日本のアマチアには統一機関が存在せず、競技者は危険にさらされている。 競技者がさらされる危険は、バラバラの安全基準による怪我と不適切な指導者の二つである。 安全基準がチア業者や学校によってバラバラなため、安全対策が複雑化し、競技者に怪我が発生する。 意思疎通ができないため不適切な指導者の情報も共有できず、また、統一された指導者認定要件もなければ共通の安全講習すらない。 統一機関が設立されない理由は、競技者の安全よりもカネを優先させているからである。
安全基準が統一されていないため、安全対策が複雑化し、チアリーディングによる傷害を発生させている。 日本ではチア業者ごとに安全ガイドラインが異なり、競技者は大会ごとに異なる安全基準に合致させる必要がある。 これは安全対策を複雑化させ、結果としてチアリーディングによる傷害を招いている。 同じように統一機関のないアメリカにおいて、国立センターによる重大スポーツ傷害調査の第18回年次報告書は 「1982年から2000年にかけて、高校と大学の女子選手は、74件の直接的な重大傷害と30件の間接的な重大傷害を被った。」と報告している。 (報告書では、直接的な重大傷害とは「スポーツへの参加により直接的に生じる傷害」であり、 間接的な重大傷害とは「スポーツ活動の練習中、あるいは、連続した致命的ではない傷害の結果として発生した体系的不具合による傷害」と 定義している。*7) 高校レベルでの直接的な傷害は50件あり、そのうち25件がチアリーディングの負傷である。 これは全ての高校を対象とした女性アスリートにおける重大スポーツ傷害の50%を占めている。 また、高校レベルで発生した26件の間接的死亡事故のうち、3件はチアリーディングに関連していた。 1982年から2000年までの高校および大学の女子選手への全ての直接的な重大傷害のうち、チアリーディングによる傷害は42件(56.8%)である*8。 チアリーディングによる傷害の懸念が高まった事を受け、アメリカン・アソシエイション・オブ・チアリーディング・コーチズ・アンド・アドバイザーズ(AACCA)は、1990年に初となる安全マニュアルを発行した*9。 日本には同種のマニュアルは存在せず、2012年にチア業者が発売した指導教本の一部として安全が取り上げられているのみである*10。 アメリカの安全マニュアルにせよ日本の指導教本にせよ、統一機関が存在しないため、作ったところで安全への取り組みがバラバラである点には変わらない。
指導者の認定要件が統一されていないため、不適切な指導者が競技者を危険にさらす可能性がある。 不適切な指導者とは、チアリーディングトレーニングを受けていない指導者と、能力や品位において不適切な指導者の二つがある。 公式チアトレーニングが存在しない事とはすなわち、公式の安全講習が存在しない事を意味し、安全について不確かな指導者が存在する事を意味する。 高学年やプロには高い能力を持った指導者が必要である。 しかしながら、チア指導者を審査する統一基準がなく、また、品位において不適切な指導者か否かを判断する情報も共有されていない。
公式チアトレーニングが存在しないため、公式の安全講習を受講した指導者も一人もいない。 チアにおける安全は高い関心を持たれている。 例えば、2016年8月時点の関西国会図書館におけるチア論文は8本あり、そのうち4本は安全に関する論文である。 安全に関する知見は個々で積み重なっているはずであるが、それを集約し、伝達する統一機関の不在は競技者にとって不幸である。 アメリカでは2002年10月にユニバーサル・チアリーダーズ・アソシエイション(UCA)とナショナル・フェデレーション・オブ・ハイスクール・アソシエイション(NFHS)が、安全に関する教育を目的としたパートナーシップを締結した*11。 その後他の5つのチア業者も加わり、安全訓練を目的とした認定プログラムを提供する、ザ・ナショナル・コンシル・フォー・スピリット・セーフティ・アンド・エデュケーション(NCSSE)を結成した*12。 アメリカの数あるチア業者のうち7つに過ぎないものの、多少は前進している。
統一された採用基準が存在しないため、能力や品位において不適切な指導者が指導する可能性がある。 チア指導者として適切な能力を保有しているかを審査する統一基準が存在せず、採用基準がバラバラである。 例えば日本サッカー協会にはピラミッド型の指導者ライセンスが存在し、キッズコーチからプロチーム監督まで、 指導者が適切な能力を持っているか審査される。 チアにはそういった統一ライセンスが存在せず、高校・大学・プロといったレベルであっても、指導者の能力はバラバラである。 品位に関する審査も面接だけで、全国的な情報共有もされていない。 例えば、イギリスではチア指導者は犯罪記録管理局を通して、児童や青少年との仕事には不適切な犯罪記録を持っていない事を証明しなければならない*13。 指導者の能力がバラバラだと学年が進んでもチアのレベルは後退するといった事態になりかねず、また、不適切な品位は犯罪を誘発する。
競技者の安全よりもカネを重視するチア業者は厳しく非難されなければならない。 日本やアメリカと異なり、ほとんどのヨーロッパ諸国にはチア統一機関が設立されている。 例えばイギリスにはブリティッシュ・チアリーディング・アソシエイション(BCA)というの統一機関がある*14。 BCAは1984年に設立され、1990年に統一機関となった*15。 スウェーデンにはスウェーデン・チアリーダー・フェデレーション(SCF)があり、1995年に結成された*16。 SCFとBCAの最優先事項は、他のヨーロッパ諸国の統一機関と同様、国内のチアリーディングを発展させ、安全基準の構築と徹底を実施する事である。 こういったヨーロッパ諸国の理念と異なり、いまだ統一機関のないアメリカに対して、BCA会長のボブ・キラルフィーは次のように批判する。 「残念だが、アメリカにはまだ統一機関がなく、我々と共に仕事をする事ができそうにないチア企業による競争的自由市場となっている。 我々はこの状態を極めて未熟だと感じている。*17」 このヨーロッパ諸国のアメリカへの批判は、日本への批判とも言い換える事ができる。 眩しいライトと大音量の音楽で競技者とカネを集めるだけ集め、怠慢にも、最も重要な安全をおざなりにしているのが日本のチア業者である。
統一機関を設立するためのカギは啐啄(そったく)である。 日本のチア業者が統一機関を設立できない唯一の理由とは、カネである。 カネが世を動かす原理であり、義・不義は事を起こす名目にしかならない。 「競技者の安全のために統一機関を設立する」という義で事を起こしても、カネで対立すれば、事は動かない。 安全よりカネを優先させるという恥ずべき現状を打破するカギが、啐啄(そったく)である。 啐啄とは、卵がかえるには、雛が内側から殻をつつき、親鳥が外側から殻をつつく必要があるという言葉だ。 これは、統一機関を設立するには、内部からの圧力と外部からの圧力を同時に必要とする事を意味している。 内部からの圧力とは、「統一しよう」という国内の声である。 外部からの圧力とは、「統一せよ」という国外の声である。 これらが同時に発生するタイミングとは、例えばオリンピックの代表選考である。 チアがオリンピック競技になった場合、統一機関が選考しない限り、日本代表は出場できないという外圧が発生する。 これが統一を目指す内圧に加わり、統一機関設立の機運が高まる。 後は影響力のある第三者を外部から招聘し、その人物に意思決定権を全権与えれば、チアは統一されるはずだ。 このパターンは2015年のバスケットボール協会の統合と同じである。
統一機関設立後は腐敗に留意しなければならない。 組織とは権力であり、権力とはカネであり、統一後のチアのトップには莫大なカネが集中するであろう。 そうなると次に起こりうる事態が腐敗である。 例えばオリンピックの開催地を決定する過程において、候補地の都市から選考委員会に莫大なカネが流れる。 そういった賄賂や過剰な接待が批判されると、今度は親族が経営する「誘致コンサルタント」にカネが流れるという始末だ。 サッカーの腐敗はさらにひどい。 そもそも、オリンピックには「人類の平和がどうたら」という建前がいちおう存在するが、サッカーは汚くて当たり前のスポーツである。 黒人選手にバナナの皮を投げつけたり、生がお好みでないのなら、こんがりと焼いた猿の首を投げつける。 その世界的統一機関「FIFA」の会長だったゼップ・ブラッターは、毎日10のアイディアを出し、そのうち11がくだらないという人間だった。 チアの統一機関が設立された場合、オリンピック協会やFIFAと同じ道をたどる可能性は高い。魚は頭から腐るのである。
アマチアはアメリカのチアリーダーの外見だけを真似したチアガールから始まった。 応援団の付属品にすぎなかったチアガールは、「思いやりの心」という日本的価値観により、 指導者(リーダー)を目的とするチアリーダーではなく、応援(チア)を目的とするチアリーダーに進化した。 日本のチアリーダーズの不幸は統一機関が存在しない点にある。 これにより、統一した安全基準も存在せず、競技者達は危険にさらされている。
全てのプロチアはアルチアから生まれ、はんなりんを模倣している。 日本で知るべきプロチアは2つある。1つはアルビレックスチアリーダーズで、1つははんなりんである。 アルビレックスチアリーダーズはプロチアの原点にして頂点である。 はんなりんは日本のダラス・カウボーイズチアリーダーズである。 2001年、新潟のアルチアから始まった日本のプロチアは「健全とセクシー」の健全さのみを追求していた。 セクシーを追求しなかった理由は、セクシー要素が日本の価値観に合致しなかったからである。 2009年、京都にはんなりんが誕生し、「セクシー」ではなく「健全とかわいい」を追求するようになる。 これは、チームよりもチア一人ひとりの個性を強調するという、DCC的大変革であった。 以後全てのチームがチア個人にスポットライトを当てるようになり、チアリーダーズはファンの恋人となった。
アルビレックスチアリーダーズとは日本のプロチアの原点にして頂点のチームである。 元NFLチアの三田智子が帰国してアルビレックスチアリーダーズを設立し、日本のプロチアの原点となった。 アルチアはプロチアの原点だけでなく頂点にも立っている。 というのも、アルチアはピラミッド型の下部組織を形成し、多数のキッズチアを抱えているからである。 スポーツチームの場合、多くの資金を持つチームが優勢である。 しかしながら、アルチアは「健全とセクシー」の健全さを追求し、NFLのかつての応援団同様に、男性から恋人として注目される事はなかった。
プロチアは三田智子や齋藤佳子といった日本人NFLチアが日本に持ち帰った。 日本人初のダラス・カウボーイズ・チアリーダーは三田智子である。 帰国した三田は本を書き、アルビレックスチアリーダーズを設立した。 三田の本はプロチアに関する初めての本であり、ここから日本のプロチアの歴史が始まる事になる。 アルビレックスチアリーダーズは日本のプロチアリーダーズの原点かつ頂点と言えるチームであり、福利厚生や水着への挑戦など、 他のプロチームの追随を許さない存在である。
三田が書いた本によって日本のプロチアは神話のような先史を終え、現実的な歴史が始まった。 三田の本は海外のチアリーダーが書いている本とは異なり、ゴーストライターによるタレント本扱いである。 タレント本の問題はゴーストライターが読者をバカにしている点にあり、「どうせ本なんて読んでないでしょ?」という軽蔑が垣間見える点にある。 例えば「まず私の生い立ちから話します」は全てのタレント本で共通であり、読書量の多い人にとっては「またこれか」と辟易(へきえき)する。 それだけでなく、音楽家のつんく♂の「だから、生きる。」には漢文が書かれていたが、つんく♂の音楽作品にそういった漢学の教養は見られない。 スゼッタ・シュルツやレスリー・ショー・ハチャードといった他のダラスチアの著書からは、チアリーダーズの血や肉片まで見えるのだが、三田の本は非常に綺麗な本である。 ゴーストライターによる口述筆記が有効なのは、太宰治や折口信夫といったレベルが必要だ。
三田の本はゴーストライターの本ではあるが、内容は極めて重要である。 というのも、日本人にプロチアリーダーズを内側から伝えた初めての本であり、しかもそのチアリーダーズはプロチア最高峰のDCCだからである。 さらに三田は後に続く人達を強く意識しており、オーディションに関しても次のように詳しく述べている*18。 「第一印象を良くするには、自分の良い所をありのまま見せる。アメリカのオーディションは良い所を見る。」 「踊りだけうまくても選ばれる事はない。活発で明るく、賢く、元気よく、性格も良いチャーミングな女性が選ばれる。」 「面接ではハッキリとものを言う事。聞かれたことにはきちんと話をしないと受け答えにならない。会話の流れが重要であり、自分の好きなもの、自分の考えを言葉にして表す事。」 「良い印象を与えるには受け身ではダメ。」 「オーディションは第一印象が決め手。笑顔でいることが自分の印象を良くする。それゆえ、候補者は他の人達に笑顔で話しかけている。」 「存在感・人間性といった、人として魅力のある人が最終審査まで残る。」 「オーディションにおいては外見が大人っぽく見える事。DCCは大人の女性の集団である。」 「外見を磨くには化粧を学ぶこと。」 こういった三田の教えは、オーディション動画を見ただけではわからない、本質的かつ普遍的な内容である。 文字の有無が先史と歴史を分ける。口伝だけで神話の世界だったプロチアリーダーズが三田の本によって現実化し、日本のプロチアリーダーズの歴史が始まった。
三田が設立したアルビレックスチアリーダーズはプロチアの原点にして頂点である。 帰国した三田は新潟でプロフェッショナル・チアリーディングチームであるアルビレックスチアリーダーズを設立する。 アルチアには独自の福利厚生が存在し、また、水着カレンダーやボランティアといったアメリカ的チア活動を実施し、日本のプロチアの原点となった。 また、多数のキッズチアとピラミッド型の育成組織を擁した、プロチアリーディングチームの頂点でもある。
アルチアは日本のプロチアの原点であり、福利厚生、水着、ボランティアについて、他のチームにはない特色を出した。 福利厚生として、アルチアはオーデ要項で仕事と住宅のサポートを申し出ている*19。 仕事と家があれば衣食住完備とほぼ同義であり、県外の人間も応募しやすいはずだ。 金銭面におけるサポート(給与)の例は、DCCのショーグループや、後に実施された千葉ジェッツの専属マネジメント契約*20程度しか存在しない。 水着カレンダーを発売したチアリーダーズは、日本でアルチアだけである(2019年現在)。 2012年にシンガポールで撮影された水着カレンダーは、月めくりではなく、ポスターとして使用できる一枚もののカレンダーであった*21。 掲載されているチアはもちろん全員水着だが、NFLのような派手なインポート水着ではなく、日本としてはごく常識的な水着である。 このカレンダーはオフィシャルグッズショップや通販で販売された。 ボランティアの重要性を認識し、病院や介護施設を訪れているチームもアルチアぐらいである。 ただし、自衛隊の訪問は実施していない。 DCCにおける最も名誉あるボランティアとはUSOツアーへの帯同であるが、自衛隊は海外に基地を持っていない。 海外で負傷して帰国する自衛隊員もなく、在郷軍人局病院に相当する病院への訪問もない。 アルチアのボランティア活動はごく一般的であり、セレブの訪問というよりも、エンターテイナーとしての訪問と言える。
アルチアには多数のキッズチアが在籍し、予算から導き出される実力において、日本のプロチアチームの頂点に立っている。 スポーツチームの実力は、多くの場合、その予算に比例する。 チアの予算を外部から正確に知る方法は存在しないが、キッズチアの人数からおおよその予算は推定できる。 2016年のアルチアキッズの人数は530人*22であり、月謝を\5,000とすると、\2,350,000/月が新潟のキッズチアからの収入である。 アルチアはサッカー・バスケのプロチアであるが、プロ野球に所属するプロチアのキッズチアはさらに多いかもしれない。 ただ、プロ野球のプロフェッショナルチアリーディングは存在感が薄い。 というのも、本場のメジャーリーグにプロチアが存在しないからである。 アメリカでの大学チア時代において、野球のチアは身奇麗・忠誠・スポーツマンらしい正々堂々とした態度のチアリングではなく ビジターチームの攻撃に専念していた*23。 プロ野球のキッズチアは小中学生で卒業してしまうが、ピラミッド型の育成組織を持つアルチアはさらに上に進む事ができる。 これは自身のチーム(別の言い方をすると、観客の好み)を知り尽くしたメンバーが新加入する事を意味しており、 実力においてもアルチアを頂点へと引き上げている。
日本に持ち帰られたチアは「健全とセクシー」の健全さだけをピックアップするものであった。 かつてアマチュアチアリーダーズが日本に持ち帰られた時、チアリーダーズの本質がリーダー(指導者)からチア(応援)に変化した。 その理由はチアリーダーズがあまりにもアメリカ的であるからだ。 オーデを勝ち抜き、(将来的に指導者や管理職を目指す)エリートだけが学校代表としてチアになれる、といった状況は日本にはなじまない。 それどころか他の国にもなじんでおらず、アメリカ以外の国はそれぞれの文化に融合するようにチアリーディングを作り直している。 例えばイギリスでは学校に所属するチアは10%にすぎず、そのほとんどはチアクラブ(アメリカで言うオールスター、日本で言うチア教室)であり、 地元のスポーツチームの応援に自費で参加している*24。 またドイツのチア大会では客席にビールが持ち込まれて騒々しく応援し、選手はユニフォームを着用したまま喫煙する*25。 アメリカにとってチアと酒・タバコは全く相容れない組み合わせであり、アメリカのチア企業が海外進出できない理由となっている。 プロチアが日本に持ち帰られた時も似たような状況となった。 DCCの本質は「健全とセクシー」であるが、後者のセクシーは日本的価値観とキッズチアの存在により失われた。 日本の価値観において、DCCのような性を挑発する衣装やダンスムーブは受け入れられず、アルチアにも一切見られない。 NFLのキッズチアは単発イベントでしか登場しないが、アルチアには組織化された永続的キッズチアが存在し、性的要素はふさわしくない。 「健全とセクシー」からセクシーを失った日本のプロチアは、極めて健全な存在となった。
健全なだけのチアは、NFLのかつての高校生応援団と同様に、男性から注目される事はなかった。 健全なだけで性が欠如すると、男から愛される事はない。 なぜなら、女は愛から性が始まるが、男は性から愛が始まるからである。 例えば、男のマザーテレサへの愛は尊敬であって、最初に性が伴わないゆえ、一般的な意味での愛ではない。 性が伴わず、一般的な意味での愛がなかったゆえ、初期のNFLの高校生応援団も注目されなかった。 この状況は日本のプロチアと同じでだった。 アルチアとその影響を受けた他の全てのプロチアは高校生応援団のように極めて健全な存在であり、 確かに日本に受け入れられたものの、多くの注目を集める事もなかった。
アルチアから日本のプロチアが始まり、充実した下部組織によってプロチアの頂点に立った。 しかしながら、日本的価値観という事情により、アルチアは「健全とセクシー」の健全さだけを強調せざるを得なかった。 健全なだけのチアは、アメリカの高校生応援団と同様に、男性から注目される事はなかった。
はんなりんとは日本のダラス・カウボーイズ・チアリーダーズであり、チアを革命的に進化させた。 日本のチアは「健全とセクシー」の健全さを強調してセクシーが抜け落ち、男性からの注目を集める事はなかった。 しかしながら、「セクシー」を強調する事なく男性の注目を集めたチームが京都ハンナリーズのはんなりんである。 はんなりんが使用した方法は、当時男性から多くの注目を集めていた、アイドルが使用していた方法と同じであった。 その方法とは個性の強調である。 はんなりんによってプロチアが革命的に変化し、他のプロチアもはんなりんに追随した。 この現象は1970年代にアメリカで発生したチア革命に匹敵し、はんなりんは日本のダラス・カウボーイズチアリーダーズとなった。
当時日本において男性から注目を集めていたのはチアではなくアイドルであった。 アルチアの第一期が2001-2002であり、モーニング娘。の設立が1997年、その楽曲である「恋愛レボリューション21」が2000年、 「ザ☆ピ〜ス!」が2001年である。メンバーとしては辻希美と加護亜依が2000年に加入してミニモニ。を結成し、紅白にも出場した。 当時は子供から大人までモーニング娘。が大人気であり、チアの存在感はないも同然であった。 これはアルチアであっても例外ではない。 当時の新潟のホームゲームではビッグスワン前の駐車場が車の海となり、スタジアムの周囲をオレンジ色の人達が列を作って何重にも取り囲み、 アウェイの観客とも気さくに交流して、こう言った。「アルビの試合は(日本)代表の試合よりも客が入る。」 アウェイ席も平和そのもので、ホームの観客と分離する柵もなく、浦和のようにアウェイチームを中傷する横断幕も貼られていなかった。 試合が始まるとホームの応援は圧倒的であり、アウェイ席にいると、右、左、前、上(二階席)から新潟の応援が聞こえた。 この雰囲気の中でアルチアにどのような存在感があったかと言うと、遠いアウェイ席にいたからか、 それとも当時チアにあまり関心がなかったからか、ほとんど気づかなかった。 アルチアであってもアイドルとはかけ離れた注目度であった。
チアにアイドル要素を取り入れ、「健全とセクシー」の本質である「恋人」を体現したチームが、京都ハンナリーズのはんなりんであった。 2009年、京都にプロバスケチームが誕生した。これは同時にプロチアチームの誕生でもあり、その初代チアDに鬼才、可児暁恵が就任した。 可児は2007-2008シーズンのアルチアの一人であり、当時名古屋に移住してチアチームを立ち上げていた。 可児がチアに起こした革命は二つあった、一つは外見、一つは内面である。 京都のチアは和服をイメージした衣装であり、アメリカ的スタンダードというコスチュームの制約からチアを開放した。 内面として、チームでなくチア個人の個性を強調した。 この手法はアイドルの手法と同じである。 アイドルファンはアイドルグループのファンではなくそこに所属する個人のファンであり、はんなりんはファンの「恋人」となった。
外見として、極めてアメリカ的なチアリーダーズの衣装を和風にした。 和風衣装はへそ出しの袴風の形であり、上着には着物の袖があり、パンツは足首が開いていた。 色は上着が白でパンツがピンクであり、上着には花と蝶が散りばめられ、京都府の花に指定されているなでしこも描かれていた。 都道府県の花の採用は、その後、島根スサノオマジック(ぼたん)や横浜ビー・コルセアーズ(バラ)でも見られた。 ポンポンは白とピンクのキラキラした素材のもので、小物として和傘や扇子を使った。 足は当初サンダルのような履物かはだしで、途中から白と赤のスニーカーになった。 この衣装はアメリカ的スタンダードの衣装から大きく離れ、なおかつ、チームカラーの青がどこにもないという、極めて挑戦的な衣装であった。 新潟では不採用になってもおかしくない衣装だったが、京都ではあっさりと受け入れられた。 というのも、そのチアが京都的で、なおかつ、誰もプロチアを見た事がなかったからである。
内面として、日本のプロチームとして初めてチア個人の個性を前面に押し出し、ファンの「恋人」となった。 DCCは「アメリカの恋人」であり「健全とセクシー」がそうさせていた。 しかしながら、日本のプロチアには「セクシー」が欠如しており、「恋人」となったチームは一つもなかった。 おそらく恋人にはなりたかったのであろうが、かつてのDCCが受けた性に対する激しい反発を警戒し、踏み出す事ができずにいた。 そこで可児はチアを恋人にするべく、すでに恋人になっていた、アイドルの要素を取り入れた。 そのアイドル要素とは個性である。 アイドルにとって個性の強調は他の女との違いを作る最も重要な要素だ。 例えば、モーニング娘。でメンバーの髪型がかぶると、後輩メンバーは自主的に髪型を変更し、個性がかぶらないようにしている。 チアがチームで一つの個性を出していた時代に、可児はチアメンバー一人一人の個性を出した。
チアの個性を引き出す方法として番号とブログがあった。 番号とは京都のメンバー一人一人に割り当てられた識別番号である。 この番号はスポーツ的には背番号であるが、京都のラジオ番組「Feel the hannarythm」の初期で会員ナンバーと紹介していたように、 かつての「おニャン子クラブ」の会員ナンバーに該当した。 おニャン子クラブでは自己紹介をする場合「おニャン子クラブ、会員ナンバーn番、○○です。」と述べていたが、 はんなりんの自己紹介も「はんなりん、ナンバーn、○○です。」と同じである。 2009年当時チアメンバーが個人でブログを書き始めたのも京都が初めてであった。 といっても、個人のSNSは何一つ存在しない時代であり、京都の公式webサイトの一部を借りての発信だった。 内容は、どこかへ旅行に行っただの、レストランで何かを食べただのといった個人のたあいのない情報が、メンバーのリレー形式で書かれた。 当時のチア関係のブログはチームの重要な情報(イベントの告知など)の発信の場であり、メンバーも不定期でしか登場しなかった事を考えると、 京都のブログは軽いノリでチア個人の個性を知る事ができた。 アイドルのファンとはグループのファンではなく、そこに所属する個人のファンであり、チア個人をアピールした京都はファンの「恋人」となった。
多くのファンから愛されるよう、はんなりんは多様性を求めた。 プロアマを問わず多くのチアチームが髪型・メイク・衣装を統一していた中、はんなりんだけはいずれもバラバラにしていた。 髪型はロングの人もショートの人もいたし、ストレートの人も巻き毛の人もいた。他のプロチームはおおむね全員巻き毛のロングであった。 メイクは濃い人もいれば薄い人もいたし、日によって変わる人もいた。他のプロチームは全員きちんと統一されていた。 衣装は番号が異なっており、メンバーは自分の番号に愛着を持っていた。他のプロチームの衣装は誰であっても完全に同じだった。 髪型・メイク・衣装が統一されていれば、それが好みでないファンからは愛されない。 しかしながら、髪型・メイク・衣装がバラバラならば、一人ぐらい好みのメンバーが見つかるものである。 後はそのメンバーの番号を覚えれば、名前を知らなくても、髪型やメイクが変わっても、追いかける事ができる。 はんなりんの仕事はチアでもダンスでもなく愛される事であり、そのためにも、多様性による個性の強調が必要とされた。
ファンの愛を獲得したはんなりんはアリーナの一体感を容易に作り上げた。 「盛り上がる会場」の正体とは一体感であるとはんなりんは洞察していた。 一体感とは主客未分の純粋経験であり、選手・チア・観客が一つの感情を共有している状態である。 喜怒哀楽といった感情を共有するには観客と試合結果を共有しなければならず、そのために参加型ホームゲームを必要とした。 参加型ホームゲームには手拍子やコレオグラフ(人文字)といった、観客の協力を引き出さなければならない。 そのために、はんなりんへのファンの愛は非常に役立った。 というのも、愛されていれば何をするにも楽だったからである。 例えば、はんなりんがメガホンを叩けばファンはメガホンを買っていつまでも叩き続けるし、はんなりんがカラーパネルを掲げればファンも一斉にパネルを出してコレオグラフを作った。 はんなりんは自身に向けられた愛のベクトルを巧みに操作し、選手・チア・観客を一つにして一体感を作り、会場を盛り上げた。
「応援」から「恋人」への大転換はDCCが起こしたインパクトに匹敵し、以後全てのプロチアが個性を出すようになった。 DCCは「健全とセクシー」を用いて応援から恋人へ転身したが、性を用いた事によって、世間の反発は激しいものがあった。 一方、はんなりんは「個性」を用いて応援から恋人(あるいはアイドル)に転身し、性を用いなかった事によって、世間からは何の反発もなかった。 はんなりんによる有効で安全で会場の一体感も作る新しいプロチアリーディングのフォーマットは、他のプロチームに大きな影響を与えた。 bjリーグやNBL(実業団チーム)の新しいチームが続々と生まれていた時期とも重なって、京都の試合会場では熱心にメモを取る スーツ姿の観客をよく見かけた。 他のプロチームもチアの個人を強調するようになり、ブログでチア個人を発信したり、チアごとにシャツの色を変えたり(高松ファイブアローズ)、チアに番号を割り当てたり(大阪エヴェッサ)した。 はんなりん以前のプロチアは、選手を応援したりダンスを踊ったりして、なんとなく会場を盛り上げるという曖昧な存在だった。 しかしながら、はんなりん以後のプロチアは、観客の恋人としてダンスを踊り、会場の一体感を作って勝利を引き寄せるという明確な存在となった。
SNS時代になり、チアの個性を発信しやすくなったが、はんなりんはすでにSNSを必要としていなかった。 2010年代中期となってTwitterやFacebookといったSNSが普及し、webサイトを持たなくても、個人の発信がより簡単にできるようになった。 しかしながら、個人を強調するはずのはんなりんはSNSに手を出さなかった。 2016年にbリーグが開幕し、ハンナリーズ公式ウェブサイトがbリーグ公式ウェブサイトに統合され、 はんなりんリレーブログが消滅するタイミングになって、ようやくTwitterアカウントを開設しただけである。 さらに、Twitterを開設したはいいが、そこへの投稿は試合告知と試合後の控室での集合写真程度だ。
はんなりんがSNSを必要としない理由は、ブランド価値の維持、非公式SNSの活用、トラブルの回避が考えられる。 ブランド価値を守るためにはファンと一定の距離を取らなければならない。例えばすでにブランドを確立した宝塚歌劇団は誰もSNSをやっていない。 はんなりんにはメンバー個人の非公式SNSが存在し、チームの公式SNSに多くを必要としていない。 ほとんどのチームは、チームの公式SNSだけ、あるいは、チームの公式SNS+チアメンバーの公式SNSである。 しかしながら、はんなりんはチームの公式SNS+チアメンバーの非公式個人SNSである。 後者の構造はよりメンバーの個性を発揮している。というのも、これは映画の公式SNS+映画女優の個人SNSという形態と似ているからである。 一方、前者の構造はメンバーの個性を発揮しているとは言い難い。なぜなら、前者のチアは非公開の個人SNSを別に運用しているからである。 SNSの手軽さはトラブルも手軽に呼び込む。 SNSを重視している西宮ストークスはファンどうしのトラブルに巻き込まれて仲裁をせざるを得なくなり*26、また、 チアの退団が個人SNSで事前に漏れる事態となった*27。 駆け出しのチアチームにはSNSは必要であるが、ある程度のチアチームにまで成長した場合、SNSはむしろリスクとなる。
はんなりんはチア本人にとっても魅力的なチームであり、10年間で3人しか辞めなかった。 はんなりんの仕事は愛される事であり、応援やダンスはその手段にすぎない。 これはアイドルと本質的に同じであり、歌やダンスはアイドル本人が愛される手段にすぎない。 愛される事がチアにとって極めて大きなモチベーションとなる事は、アメリカのアマチュアチアが証明している。 アメリカのアマチアには学校代表とオールスター(チア教室)の二種類が存在するが、圧倒的な人気は学校チアである。 というのも、学校チアは男にモテるからだ。 中学二年生の学校チアリーダーのジューリーは次のように言う。 「私はショートスカートと男子のためにスクアッドに入っています!*28」 はんなりんが男のためにスクアッドに入っているかは不明だが、男からモテる事は間違いない。 お出迎え時にプレゼントをもらう光景はよく見かけるし、中にはプレゼントを両手で抱えて引き上げるメンバーもいる。 学校チアと同様に、男からモテる状態はチアのモチベーションを向上させていると考えられる。 実際、シーズン中に自主的に辞めたはんなりんは、海外留学という理由も含めて、10年間全49人のうち初年度の3人しかいない。 それどころか、大学時代の全てを含め7シーズン所属したAyanoや、2回卒業して3回戻ってきたMiyukiもいる。 はんなりんには外部から見ている以上の魅力が内部にあるのであろう。
はんなりんはチア個人に個性を与えるというアイドル的手法により、性的要素を用いる事なく、 日本のプロチアリーダーズを観客の恋人へと進化させた。 この進化は、ダラス・カウボーイズチアリーダーズが見せたような、革命的進化であった。 以後、アルチアが創造し、はんなりんが完成させたプロチアのフォーマットを、他の全てのチームが追随するようになる。
2017年固定給のチアリーダーズが日本で初めて誕生した。 プロチアリーダーズは基本的に試合ごとの歩合給であり、固定給はDCCのショーグループぐらいである。 そうした中、男性チアリーダーや打楽器パフォーマンスグループといった数々の先進的な取り組みを続けている千葉ジェッツが、 固定給のチアリーダーズを募集した*29。 金額は月額20万円以上で、2014年における読売ジャイアンツチアの月額15万円(\15,000/試合×ホームゲーム約70試合÷1シーズン7ヶ月)を 超える日本一の金額である。 固定給の長所は言うまでもなく生活の安定であり、チアに集中できる環境の構築である。 固定給チアリーダーズにはAyumi、Monomi、Yukoの三人が合格し、チアチーム名のSTAR JETSとは別にSJ☆Wingsと名付けられた*30。
日本のアマチアは見た目だけをマネしたチアガールから始まり、指導者(リーダー)として君臨するチアリーダーズではなく、 応援(チア)する心を重視したチアリーダーズに進化した。 日本のプロチアはアルビレックスチアリーダーズから始まり、「健全とセクシー」を「健全とかわいい」に置き換えた はんなりんによってアイドル化し完成した。
チアの未来は短期的には画一化、保守化するが、長期的には多様化するであろう。 チアとはアメリカそのものである。 アメリカのリーダーシップと献身性を象徴するフットボールが生まれ、観客へのリーダーシップと選手への献身性を持ったチアリーダーが生まれた。 大学で始まったチアリーディングは最初男性が実施していた。これは1800年代のアメリカが完全な男性社会だったからである。 1920年代に入り、女性の大学への進学率が向上し、男女混合チアリーダーズとして女性化が始まった。 1970年代の性革命と共にDCCが生まれ、チアは完全に女性のものとなった。 その後のアメリカ社会の多様化と共に、レズビアンのチアといった、多様なチアが生まれる事になる。 2019年現在のアメリカは画一化、保守化が進んでおり、近未来のチアはどこも同じようなスクアッドとなるだろう。 ただ長期的に見ると、白人のマイノリティ化により、多様なチアに戻るのではないだろうか。
日本のプロチアの未来は、アイドルとよく似た形態であり続けるであろう。 なぜなら、チアの本質とは恋人であり、日本の恋人がアイドルである以上、未来のチアもアイドルとよく似た形態となるからである。 日本のプロチアは2000年代に三田がアメリカのプロチアをアルビレックス新潟に持ち帰った事から始まった。 しかしながら、持ち帰られたチアは「健全かつセクシー」のセクシーを削り取ったものであった。 2010年代になり、セクシーの代わりにアイドル要素を組み込んで、はんなりんが日本のチアを完成させた。 アイドル要素とは個性の尊重であり、はんなりん以降、すべてのプロチアが所属するメンバーの個性を引き出すようになった。 チアの本質とは恋人であり、日本の恋人がアイドルである以上、チアにおけるこの傾向も続くはずである。
この本で使用した参考文献を紹介する。 参考文献は洋書、論文、和書、訳本、記事、映画に分けられており、それぞれチアをより深く知りたい人は必読、必見である。 参考文献の中でプロチアが読むべき本は「Professional Cheerleading Audition Secrets(Flavia Berys、英語・日本語)」である。 この本はNFL・NBAに合格するためのハウツー本であり、実際にオーデを受験する人だけでなく、最高レベルのチアを探求したい人は必読の一冊だ。 アマチアが読むべき本も上記の「PCAS」である。というのも、PCASの内容は本質的かつ普遍的であり、日本のプロチア受験にも応用できるからだ。 研究者が読むべき本は「Go! Fight! Win!: Cheerleading in American Culture(Mary Ellen Hanson、英語)」である。 この本はアメリカにおける文化としてのチアリーディングを考察しており、全てのチア研究の基礎となる本だ。 また、洋書の入手方法と原典(参考文献が引用している資料、あるいは、参考文献がオリジナルの場合参考文献そのもの)も記載する。
PCASはNFLやNBAといったプロチアオーディションに合格するためのハウツー本である。 対象はプロチアで、実際にNFLやNBAチアを目指す人は必読だ。 というのも、PCASには映像や体験談では知り得ない審査側の情報が多数掲載されており、この本なしでの合格はまず不可能だからである。 チアオーデの映像はYoutubeに多数アップされているが、映像だけでは目に見えるうわべだけの情報しかわからない。 過去のNFL・NBA合格者の体験談は非常に貴重であるものの、あくまで受験生としての情報である。 PCASはプロチアオーデの審査員が実際に書いており、審査する側から見た、合格に必要なスキルや要件が多数掲載されている。 NFLやNBAチアを目指す人は、いきなり渡米して玉砕するのではなく、この本を読んで慎重に準備してから渡米した方が良い。
PCASは最高レベルのチアを探求したい人は必読である。 なぜなら、最高レベルのチアであるNFL・NBAチアが保有すべきスキルや要件が多数掲載されているからである。 NFL・NBAチアに必要なスキルはチアダンスだけでなく、多種多様なダンス、弁論術、法知識などが存在する。 必要なダンスの一例としてバレエが挙げられているが、意外にも、優先度はベストでなくベターである。 審査員はバレエの訓練を最低限受けているか確認するものの、白鳥の優雅さでは他の受験生より見劣りするとしている。 必要な要件は、筋力、スタイル、髪型、メイク、歯列矯正、脱毛、日焼け、胸の強調、ニキビ、ネイル、宝飾品などが存在する。 これらのスキルや要件を知る事は、世界最高レベルのチアリーダーを知る事でもあり、より高度なチアを探求する人に必須である。
PCASはアマチアにもおすすめである。 なぜなら、日本のプロチアリーディング受験にも応用できるからである。 世界大会で何度も優勝したアマチアと、客を2〜3人連れて来られるアマチアが同時に受験した場合、合格するのは後者である。 というのも、プロスポーツチームは観客動員による収入が極めて重要だからである。 世界一の高度な技術を披露しチアDが合格を決定しても、社長がそれを許さず、シーズンチケットを2〜3枚売る事ができるチアを代わりに合格させるであろう。 プロチアとはチアリーダーでもスポーツマンでもダンサーでもなく、単なる恋人なのである。 PCASには恋人としてファンから愛されるための技術が掲載されている。 例えば、受験生はチームの現役メンバーと同じ髪型とメイクをする必要がある。 これは、現役メンバーがその髪型とメイクですでにファンから愛されており、受験生も同じ髪型とメイクで愛されなければならない事を意味する。 こういったファンに愛される技術は本質的かつ普遍的であり、プロチアを目指すアマチアは必読である。
PCASの読むべき章は全てであり、読み飛ばす章はない。 PCASは全12章に分かれており、「1.はじめに」、「2.このスポーツはあなたに向いていますか?」、「3.調査と準備」、「4.ダンス」、 「5.体」、「6.身だしなみ」、「7.オーディション時の服装」、「8.心がけ」、「9.応募」、「10.オーディション当日」、「11.私達はあなたを応援しています!」、「13.あなたのモチベーションは何ですか?」で構成されている(第12章は欠番)。 これらの章は全て重要な内容が書かれており、読み飛ばして良い内容は一つもない。 PCASは日本語に翻訳されているため、最初から全て読んでも特に苦にならないはずである。
NFL・NBAレベルのチアオーディションは事前の準備が全てであり、準備が整っているか否かで合否が決まる。 それゆえ、PCASのほとんどは「いかに準備するか」にあてられている。 具体的には、第1章から第3章までの机上での論理的な準備、第4章から第7章までの実際の物理的な準備、第8章と第9章の応募書類の準備の三つに分けて解説している。 また第10章ではオーディション当日のアドバイス、第11章では審査員や合格者からのアドバイス、第13章は著者からのアドバイスが書かれている。
第1章から第3章までは机上での事前準備を説明している。 「1.はじめに」では著者がこの本を書いた理由を述べている。 著者は力を持っているのに見せ方を知らない受験生が多い事を嘆いており、磨けば光る可能性ではなく、 すでに磨かれたダイアモンドを審査員に披露する必要がある、と述べる。 「2.このスポーツはあなたに向いていますか?」では、プロチアに合格しなければならない理由とその条件を述べている。 理由として、楽しい、エキサイティング、グラマラス、友達とコネが増える、一流企業の履歴書に書く事ができる、としている。 条件は、スポーツを愛している事、ダンストレーニングを受けている事、個人よりチームを優先できる事、体力、ルックスを磨く意欲、マナー、 ポジティブ思考、時間、18歳以上の年齢、としている。 「3.調査と準備」では事前準備の重要性と行うべき調査と準備について述べている。 事前準備が重要な理由は、飛び込みでオーデを受験しても合格する見込みがないからである。 審査員はオーデの準備ができない人はシーズンの準備もできないと考える。 行うべき調査と準備は、オーデ日時の調査、チームの調査、チアカレンダーの作成、チアDへの連絡である。 これらを読む事により、実際に行動する前の準備を完了させる事ができる。
第4章から第7章までは実際の準備を説明している。 「4.ダンス」では、チアダンス以外の教養として、ジャズ、ベリーダンス、ヒップホップ等が必要であると述べている。 また、オーデに必要なソロルーティーンの作り方も解説している。 「5.体」では、合格に必要な体について説明し、それらの作り方についても述べている。 合格に必要な体とは健康な体であり、サイドラインで最後まで踊るための体力を必要とする。 健康な体を作るためには筋肉が付く事を恐れず、正しい栄養補給(ダイエット)と水分を取る事としている。 「6.身だしなみ」では合格に必要な外見について説明し、その作り方についても述べている。 合格に必要な外見とは受験するチームの現役メンバーと同じ外見である。 というのも、その外見が所属チームのファンの好みの外見だからである。 この章にはメイク、ヘア、ネイル、胸の谷間、ニキビ、宝飾品、日焼け、歯並びなど、非常に多岐にわたる解説がある。 「7.オーディション時の服装」ではオーデ当日の衣装について述べている。 衣装はダンス用と面接用の二つが必要である。 ダンス用はホットな衣装を必要とし、スポーツブラやヨガパンツは避ける事としている。 面接用は基本的にスーツだが、「カジュアル(デニムでも良い)」「カクテルやイブニング(ちょっとした黒いドレス)」 「ドレッシーカジュアル(シースドレス)」「ビジネスカジュアル(ボタンダウンシャツと膝下スカート)」等もある。 これらを読む事により、オーデの具体的な準備を完了させる事ができる。
第8章と第9章は応募書類の準備、第10章はオーデ当日の振る舞い方、第11章は審査員や合格者からのアドバイス、第13章は著者からのアドバイスが掲載されている。 「8.心がけ」ではダンス業界における自分の評判を省みよと述べている。 チアDが最も恐れる事態とはチームの名声に傷が付く事である。 それゆえ、行動に問題のあるダンサーは、オーデ前に迷惑をかけた人達に謝罪しなければならないとしている。 「9.応募」では審査員の目を引く応募用紙の書き方について述べている。 具体的には写真のサイズをレターサイズにせよとしている。これは審査後に写真をカードのように使用して受験生の顔を思い出すためである。 「10.オーディション当日」はオーデ当日にやる事、スコアの付け方、持ち物について述べている。 当日にやる事としてスケジュールを列記し、面接パートでは想定問答集を紹介している。 スコアの付け方はチームごとに異なるが、DCCは「イエス」「ノー」「保留」で評価する。 持ち物は衣装、ソロ用音楽、メイク・ヘア道具、水、タオル、予備の衣装・靴・パンスト、デオドラント、おかし、安全ピン、透明テープ等である。 「11.私達はあなたを応援しています!」ではNFL・NBAのチアDや元チアからのアドバイスが掲載されている。 「13.あなたのモチベーションは何ですか?」では著者からのアドバイスが掲載されている。 これらを読む事により、オーデの準備の最終的な仕上げをする事ができる。
PCASの入手難度は低く、語学力も必要ない。 この本はアメリカのみで販売されているが、日本でも非常に簡単に入手できる。 というのも、アメチア(https://amecheer.com/)が輸入とバンドル販売をしているためであり、そちらに連絡すれば日本語で対応し日本円で購入できる。 Amazon USAで直接購入する場合はこちら(https://www.amazon.com/Professional-Cheerleading-Audition-Secrets-Japanese/dp/1938944054/)。 また、日本語版のため語学力も必要ない。 英語版はアマゾンや紀伊國屋書店(https://www.kinokuniya.co.jp/)で購入でき、必要語学力は高校生レベルである。 通常は日本語版を代理店から購入し、語学力を向上させる目的がある場合、英語版をアマゾンで購入する事。
GFWはチアリーディングの基礎研究本である。 対象は研究者であり、チアリーディングについて深く知りたい人は、まず最初に読まなければならない本である。 GFWはチアリーディングを学術的研究対象とした初めての本であり、全てのチア研究がGFWから出発していると言っても過言ではない。 内容は男子大学生チアから始まり近代的チアリーディングへ至った進化の過程とその文化的背景について書かれている。 具体的には、チアへの大人の関与、チアにおける社会的階層・年齢・人種・性別の変化、プロスポーツでのチアの発展、 マスコミや広告との関係、内容と様式の進化、アメリカ文化におけるチアリーディングの意義と価値について述べている。 チアを研究する場合、まず基礎としてGFWを読んでおく必要があり、それなしでの応用研究はありえない。
GFWの読むべき章は全てであり、読み飛ばす章はない。 GFWは全6章に分かれており、「1. 大学と中学高校における始まり」、「2. 中学高校・地域社会・大学チアにおける制度化と商業化」、 「3. エール(声援)からセール(販売)へ:プロフェッショナルスポーツにおけるチアリーディング」、「4. コンテンツ(内容)とスタイル(様式):スピリット(精神)、エンターテインメント(接待)、コンペティション(競技)」、「5. サイドラインと(ニュース)ヘッドライン:アメリカ文化におけるチアリーディングのイメージ」、「6. チアリーディングに関する考察:反復と再考」で構成されている。 これらの章は全て重要な内容が書かれており、英語を読むのが面倒でも、読み飛ばして良い内容は一つもない。 ただ、読み飛ばして良い内容がなくとも、優先順位をつけ、興味のある章から読み進める事はできる。
第1章から第3章まではアマからプロへ至るチアリーディングの歴史が書かれている。 「1. 大学と中学高校における始まり」では、男子大学生によるチアリーダーズの誕生から、女子チアリーダーの参加、ソングガールズの誕生、男女混合を経由したチアの女性化、中学・高校へのチアの拡大について述べている。 「2. 中学高校・地域社会・大学チアにおける制度化と商業化」では、教育の一環として学校に組み込まれたチア、学校チアのトライアウト、人種問題、地域社会とチア、教員によるチアトレーニング、プロによるチアトレーニングの商業化について述べている。 「3. エール(声援)からセール(販売)へ:プロフェッショナルスポーツにおけるチアリーディング」では、NFLでの高校生チア、DCC、プロチアの仕事、プロチアの規律と管理について述べている。 これらの章を読むことにより、チアの誕生から現在までを理解できる。
第4章は応援チアから競技チアへの変化、第5章はメディアにおけるチアの扱い、第6章はアメリカ文化におけるチアの意義と価値について書かれている。 「4. コンテンツとスタイル:スピリット、エンターテインメント、コンペティション」では、学校、社会、大衆市場におけるチアの多様な進化を、スピリット(精神)、エンターテインメント(接待)、コンペティション(競技)に分けて述べている。 「5. サイドラインとヘッドライン:アメリカ文化におけるチアリーディングのイメージ」では、大衆文化として新聞、雑誌、テレビ、映画に登場するチアについて述べている。 「6. チアリーディングに関する考察:反復と再考」では、アメリカ文化におけるチアリーディングの意義と価値について作者が自身の考えを述べている。 これらの章を読むことにより、チアとアメリカ文化の関係を理解できる。
GFWの入手難度は中程度だが、語学力は英語論文を読めるレベルが必要である。 GFWの出版年は1995年だが、2018年時点で、Amazonと紀伊國屋書店で新品が定価販売されていた。 ただ、いつまでも新品が販売されているわけもなく、電子書籍版も存在しないとあって、読むのならば早めに購入した方が良い。 必要な語学力は英語論文が読めるレベルであり、かなり高い。 前提となる学習は一般的なアメリカ史であり、南北戦争や黒人運動を多少知っておく必要がある。 NFLや学校チアといった日本では馴染みのないトピックが出てくるものの、前後から判断すればなんとかなる。 GFWは最高難度のチア本であるものの、マンガや写真もあったりと読んでいて楽しく、じっくりと時間をかけて取り組みたい一冊である。
DEEPは元ダラス・カウボーイズチアリーダーが黄金時代のDCCについて記述した本である。 対象はプロチアと研究者であり、アメリカナンバーワンのプロチアスクアッドである、DCCの光と影について知りたい人は必読である。 光としては、アメリカの恋人となったチア達の栄光と、それを作ったダラス役員の発想、振付師の才能、チアDの手腕が記述されている。 影としては、健康を害する危険なダイエット、不安定な雇用、薬物汚染、愛人問題が記述されている。 また、当時チアDだったスザンヌの厳しい指導についても恨みつらみを交えて書かれており、それらへの反論を後述するDaughtersで見る事ができる。 DEEPにはDCCが栄光を築き上げた方法やそれに伴う副作用の数々が描かれており、プロチアや研究者にとって極めて興味深い内容である。
DEEPは読むべき章だけ読んで、読まなくてもよい章は読み飛ばしても良い。 読むべき章は「1. 黄金時代の始まり」「3. 母」「4. トライアウト」「6. オーディション」「7. キャンプ」「8. スイートルーム」「9. 人気」「10. 特別待遇」「11. 恋愛禁止」「12. 結婚観」「14. 髪型、ファン」「15. ダイエット」「18. ボランティア活動」「19. スザンヌ」「20. ヌードモデル」「19. スザンヌ」「21. 女優」「22. 継続オーディション」「24. 黄金時代の終わり」「25. 再起」である。 読まなくてもよい章は「序文」「2. 父」「5. 祖母」「13. ジョニー・ロビンソン」「16. コカイン」「17. 薬物」「21. 女優」「23. ロニ」である。 読むべき章にDCCに関する話題が書かれており、読まなくても良い章には著者の家庭環境などDCCと関係のない話題が書かれている。
DEEPの読むべき章には黄金時代のDCCに関する話題が書かれている。
「1. 黄金時代の始まり」では石油バブルと共に始まったDCCの普段の試合の様子を述べている。 試合に遅刻しそうになったDCCをパトカーが先導するシーンは日本では考えられない。 「3. 母」と「4. トライアウト」では、三人の娘を全員DCCに合格させた著者の母と、その教育方針を紹介している。 「6. オーディション」「7. キャンプ」では、DCCのオーデとシーズン前合宿の様子について述べている。 「8. スイートルーム」「9. 人気」「10. 特別待遇」ではセレブとしてのDCCについて述べている。 テキサス・スタジアムのスイートルームは1部屋100万ドルであり、改装費としてさらに100万ドルを必要とする。 人気は爆発的であり、数千人のファンが出待ちをし、テレビや映画にも出演した。 また、セレブとしてどこにでも顔パスで入る事ができる、特別待遇を受けていた。
「11. 恋愛禁止」はDCCと選手との恋愛禁止について述べている。 DCCは選手との恋愛が禁止されていたが、DCCの周囲には多くの金持ちがおり、選手と交際する必要はなかった。 「12. 結婚観」では医者と結婚した著者の結婚観について述べている。 あまりDCCとは関係ないが、セレブの結婚観を知る事はできる。 「14. 髪型、ファン」では自由のない髪型と、ストーカーのファンについて述べている。 DCCではチアDが髪型の全てを統率し、チアに自由はない。熱心なファンはアウェイまでDCCを追いかけ、同じ飛行機に乗ってダラスに帰った。 「15. ダイエット」では利尿薬や麻薬を使用する壮絶なダイエットについて述べている。 薬物を使用したメンバーは副作用で健康を害したり、異常な興奮状態となった。
「18. ボランティア活動」では軍隊や孤児院でのボランティア活動について述べている。 中でも、海外に展開する米軍基地への慰問がこの章のメインである。 「19. スザンヌ」では鬼のチアDであるスザンヌの孤独なプライベートについて述べている。 スザンヌは他人にも自分にも厳しい人間であったが、そのプライベートは孤独であった。 「20. ヌードモデル」ではプレイボーイ紙で脱いだ元DCCの騒動について述べている。 ハリウッドでの撮影秘話も書かれているが、それはDCCとは関係ない。 「22. 継続オーディション」ではベテランが受験するオーデと、そこで不合格になった人達について述べている。 母の日にスザンヌに花束をあげた何人かのメンバーを、継続オーデでバッサリ切るスザンヌが見所。 「24. 黄金時代の終わり」は石油バブルの崩壊と共にテキサスの経済も崩壊し、DCCの時代も一区切り付いた事について述べている。 バブルの崩壊はカウボーイズのオーナーを交代させ、スザンヌもチアDを辞職した。後任チアDはバレエの要素を取り入れてDCCから力強いダンスを奪った。 「25. 再起」では黄金時代の後のDCCについて述べている。 カウボーイズはNFLワースト記録で負けたものの立ち直り、DCCも新チアDのシャノン・ベイカーが現代風のダンスを取り入れて立ち直った。
DEEPの読まなくても良い章にはメンバーの個人的なエピソードが書かれており、DCCとは無関係である。 「2. 父」では大金持ちとなった父の経歴について述べている。 「5. 祖母」ではやり手の母親のルーツについて述べている。 「13. ジョニー・ロビンソン」は金持ち男の愛人となったDCCメンバーのエピソードである。 「16. コカイン」は先程の金持ち男と何人かのDCCメンバーによる薬物への関与について述べている。 「17. 薬物」は酒と薬物に関する完全に無関係な話である。 「21. 女優」はハリウッドでの映画撮影の後、女優に転身しようとして騙されたメンバーについて述べている。 「23. ロニ」は金持ちの男に捨てられたメンバーについて述べている。 これらを読んでもDCCに関する情報は何一つ得られず、時間を無駄にするだけである。
DEEPの入手難度は中程度で、必要な語学力は中学〜高校レベルである。 DEEPの出版年は1991年であり、新品はほとんど存在せず、中古本の購入となる。 中古本の値段は\2,000〜\3,000であり、時には\7,000と無駄なプレミア価格が付いている。 プレミア価格は中古本ではなく新古本であるが、カラーのブックケースが付属する程度で、中身が読めれば良い研究者には不要な出費である。 必要な語学力は中学〜高校レベルであり、それほど高くはない。 難解な箇所は「読まなくても良い章」に多数存在する。これらは英語が難解というよりも、下品な表現や不適切な表現ゆえの難解さである。 予備的な知識はほとんど必要ないが、事前にGFWを読んでおけば、DCCやスザンヌに対する理解が早くなる。 DEEPはDCCを知るために必須の本であり、読み飛ばす章が多いものの、プロチアは絶対に読んでおきたい一冊である。
ICONはチアリーディングの研究本である。 この本は「チアはアメリカの象徴(アイコン)である」と結論付け、様々なアメリカ文化とチアリーディングとの類似性を研究している。 アメリカを濃縮させるとチアになり、アメリカとはチアそのもので、チアもまたアメリカそのものだという事がよくわかる一冊である。 内容として、アメリカの善意と悪意の両者を体現する「アメリカ的な」チア、ゲイやレズといったチアの常識を破壊する特異なチア、 チアの歴史、チアの傷害、チアはスポーツか否かの論争、チアと性、人種問題、チア産業、文化的アイコンとしてのチアの変化について 書かれている。 対象は研究者であり、GFWを基礎としているので、まずそちらを読んでからICONを読む方が良い。 この本の出版は2005年で、1995年出版のGFWからアップデートされたチア研究として読む価値がある。
ICONの読むべき章は全てであり、序文以外に読み飛ばす章はない。 ICONは全7章に分かれており、「1.極めてアメリカ的なチアリーディング」、「2.特異なチアリーディング:チアリーダーズの変異」、「3.がんばれ!:スポーツ、熱意、新しいチアリーダー」、「4.胸の谷間と尻とポンポン:チアリーディングとエロティシズム」、「5.チアリーディングは「白人女子のもの」:チアリーディングの人種的政策」、「6.チアで金を儲ける:スピリット産業」、「7.チアの革命:文化的アイコンの変化」で構成されている。 これらの章は全て重要な内容だが、チア研究のきっかけが書かれた序文は読み飛ばしても構わない。 各章は基本的に独立しており、興味のある章だけ読む事もできる。
「1.極めてアメリカ的なチアリーディング」では、チアはアメリカの美徳と悪徳の両方を体現しており、アメリカそのものであると述べている。 チアあるいはアメリカの美徳とは忠誠心、献身的愛情、克服し難い困難に直面しての忍耐、言葉での説明を不要とする自信と楽観である。 悪徳とは浅薄、不誠実、自己中心的、実利主義である。 「2.特異なチアリーディング:チアリーダーズの変異」では、女性や若さといったチアの常識を覆すチアについて述べている。 例えば、ゲイとレズビアンのチア、高齢者チア、軍事大学のチア、政治的チアであり、競技チアも「自分のためのチア」として特異なチアの一つとしている。 「3.がんばれ!:スポーツ、熱意、新しいチアリーダー」では、学校の競技チア、学校チアのトライアウト、傷害、チアはスポーツか否かについて述べている。 アメリカにおいては、チアはスポーツではなくレクリエーション(課外活動)であるという考えが主流である。 というのも、チアは競技活動に専念しておらず、また、専念したくないと多くの人達が考えているいるからだ。 アメリカのスポーツの定義は厳格であり、そのレギュレーションにのっとると、チアは競技だけに専念して応援活動がほとんどできなくなる。 ただ、応援でなく競技を中心とするのならば、例外的に「学校代表」のスポーツチームとして定義されるとしている。
「4.胸の谷間と尻とポンポン:チアリーディングとエロティシズム」ではチアと性に関する話題を述べている。 チアの魅力とは処女と誘惑であり、エロで男を性的に誘惑した上で、処女のように男を拒絶する点がチア人気の秘密である。 「5.チアリーディングは「白人女子のもの」:チアリーディングの人種的政策」ではチアの人種問題について述べている。 チアのトライアウトがカネを持った白人を前提としており、差別的であると不満を持った人達による訴訟が相次いだ。 訴訟によりトライアウトは公平なものとなったが、依然としてチアスクアッドのほとんどは白人で構成されている。 その理由は学業不振、資金問題、エリートグループに所属する事に対する他の友達の目である。 トライアウトは公平でも、そこにたどり着く環境が不公平であるという、アメリカが抱える問題を見る事ができる。 「6.チアで金を儲ける:スピリット産業」ではチア大会を開催したりチアグッズを販売する業者について述べている。 大会やグッズだけでなく、チアリーダーとしての自分を大学や企業に売り込む事も可能である。 「7.チアの革命:文化的アイコンの変化」では著者のチアリーディングに関する見解を述べている。 著者は「チアリーディングとは、女子が女性になるための、社会的に受け入れられる活動を通じたトライアウトである。」と総括している。
ICONの入手難度は低いが、語学力は英語論文を読めるレベルが必要である。 ICONの出版年は2005年だが、電子書籍版が2015年にAmazonで発売されており、入手しやすい。 必要な語学力は英語論文が読めるレベルであり、かなり高い。 ICONを読む前にGFWを読んでおくと理解が早くなる。 というのも、GFWを基本として、取材やアンケートなどにより独自の応用研究をしているからである。 ICONは難度が高いものの、電子書籍として手軽に読める点が魅力であり、敷居の低い研究本であると言える。
LNDはNBAチアの実態が書かれた本である。 対象はプロチアリーダーであり、NBAチアリーダーズに興味を持っている人は必読である。 LNDは元NBAチアリーダーが自分の現役時代を振り返り、NBAチアを目指している人やファンにむけて、NBAチアの生活全般を紹介している。 (なお、著者はNBAダンサーとNBAチアリーダーを別個のものとしているが、ここでは両者をNBAチアリーダーとして同一に扱う。 というのも、DCCもダンスしか披露しないが、チアリーダーズという名前だからである。) 具体的には、NBAチアの家庭環境、健康と体力、オーディション、オーデの秘訣、練習、スクアッド、プロ意識、収入、 セレブ、グルーピー(選手目的のチア)、舞台裏、引退について述べている。 ただ、DEEPとは違って暴露性は低く、チームが訴訟を起こすような内容は書かれていない。 NBAチアとは何か、どうすれば合格できるのかがよくわかり、プロのチアリーダーにおすすめしたい一冊である。
LNDの読むべき章は全てであり、献呈・謝辞・宣伝以外に読み飛ばす章はない。 GFWは全10章に分かれており、「1. 知られざるNBAダンサー」、「2. NBAオーディション」、「3. 最良の人間がオーディションに合格するのか?」、「4. NBAチームの練習方法」、「5. 人生の友」、「6. パフォーマーになる事の意味」、「7. にわかセレブ」、「8. ダンサー vs グルーピー」、「9. 舞台裏の政争」、「10. 引退」で構成されている。 これらの章は全て読むべき内容だが、冒頭の「献呈」と末尾の「謝辞」「自身の会社の宣伝」は読み飛ばしても構わない。
「1. 知られざるNBAダンサー」ではNBAチアの概要、NBAチアを希望する人へのアドバイス、NBAチアによって犠牲になるもの、健康と体力の重要性について述べている。 NBAチアとは最高のダンサーではなく、エネルギーと存在感を持ったダンサーである。 エネルギーとはスタイリッシュかつ正確なパフォーマンスで、存在感とはファンへのアピールである。 チア希望者へのアドバイスとして、バレエ、ジャズ、モダン、ヒップホップといったスキルと、栄養管理の重要性を説く。 またパフォーマンスは個人が集まったスクアッドではなく、スクアッドが1つの個人となり、1つの有機体となる必要がある。 NBAチアが犠牲にするものとは時間であり、特に家族との時間が失われる。 健康と体力はNBAチアにとって最も重要であり、チームによっては体力評価(血圧テスト、体脂肪テスト、体重測定)が実施される。
「2. NBAオーディション」では、考慮すべき重要事項、ベテランの再受験、合格するコツ、 才能と外見のどちらが重要かについて述べている。 重要事項として、5月6月のオーデが合格しやすいというのがある。というのも、早めのオーデは多くのベテランが辞めた事を意味するからである。 またワークショップに参加し、体がシンメトリに見える衣装を着用せよとの事。 ベテランの強みはオーデをよく知る賢さにある。ベテランは審査員が求めるものを知っており、一日がかりのオーデのペース配分も知っている。 合格するコツは調査と準備である。これはPCASでも全く同じ事を言っている。 才能と外見のどちらが重要かはチームのニーズによって異なる。
「3. 最良の人間がオーディションに合格するのか?」ではオーデにおいて「素晴らしいダンサー」が常に合格する訳ではない理由について述べている。 その理由とは、「素晴らしいダンス」だけでなく、チームのニーズとの合致、人種バランス、ブロンド・アドバンテージである。 チームはそれぞれ異なる哲学と基本方針を持っており、そのニーズに合致しなければならない。 例えば赤毛のメンバーがすでにチームに存在している場合、赤毛の素晴らしいダンサーは合格が難しくなる。 チームには人種的多様性が求められる。どんなにダンサーが素晴らしくても、偏った人種に属している場合、合格が難しくなる。 ブロンドヘアが有利に働く点は事実であり、才能の一つである。ただし、人種バランスに優先する事はない。 著者が在籍していたニューヨーク・ニックスには16人のチアがおり、4人のブロンド、4人の赤毛、4人のブルネット(茶色)、4人のアフリカ系アメリカ人という構成であった。
「4. NBAチームの練習方法」では練習方法の紹介、練習スケジュール、プロとアマの違いについて述べている。 NBAチアの練習はルーティーン、ボディーコンディショニング、筋力トレーニングの3つに大別される。 ルーティーンとはタイムアウトやクォータ間で披露されるパフォーマンスであり、繰り返しの練習によって、振り付けが体の一部となるよう学ぶ。 ボディーコンディショニングとはスタミナの維持、栄養補給、休養、リラクゼーションであり、ルーティーンを披露するために重要である。 筋力トレーニングはNBAシーズンを長くて険しい長距離走に例えてその必要性に言及している。 練習スケジュールはシーズン開始前とシーズン中で異なる。 シーズン開始前はオーデのルーティーンをパフォーマンスに組み込み、平日と週末にシーズン前イベント用の練習をする。 シーズン中のスケジュールは試合日程によって変更され、その日程に合わせてチアの日程も変更しなければならない。 プロの練習は振り付けを迅速かつ完璧に習得する技術が求められ、様々なパフォーマンススタイルを理解し、フォーメーションの重要性を再認識する必要がある。 アマチュア(高校・大学)の練習はルーティーンが重視され、パフォーマンスに必要な能力の開発には十分な時間をかけていない。 練習が進むとルーティーンとフォーメーションがもう一つの体となり、音楽がかかればルーティーンのいかなるポイントであっても 即座に特定の振り付けを実施できるようになる。 NBAでは、チアが何人いても、それらが別々の動きをしていても、1人の人間が1つのアクションを実施しているように見えるまで練習する。
「5. 人生の友」ではダンサーどうしの絆について述べている。パフォーマンスは全員で一つの有機体となって見えなければならず、ダンサーの絆はその動きを洗練させる。 「6. パフォーマーになる事の意味」では、成功したダンスチームに共通する3つのP(Professionalism(プロフェッショナリズム)・Personality(カリスマ性)・Passion(情熱))について述べている。 プロフェッショナリズムはファン・仲間・練習・イベント・プライベート・スポーツチーム・社員に対しての行動も含まれる。 カリスマ性はダンスと(イベントでの)スピーチによって観客を引きつけるために必要である。 情熱はエキサイティングなパフォーマンスに必要な要素であり、その有無がパフォーマーと他の人とを区別する。 「7. にわかセレブ」ではセレブとしてのチアの心得について述べている。 チアに合格すると一夜にしてセレブとなる。その一方でチアとはロールモデルでもあり、プライベートでも誰かに見られている事を自覚し、説明責任を果たさなければならない。
「8. ダンサー vs グルーピー」では選手やカネ持ち男目当てでチアになる女を批判している。 グルーピーとはタレントなどに集団でつきまとう女性ファンの事(広辞苑第7版)であり、LNDにおいては、選手やカネ持ち目当てでチアになった女を意味する。 グルーピーとなったチアはセレブのパーティに出席し、高価なプレゼントを受け取り、無料であちこちに旅行するようになる。 ダンスに打ち込む真のチアは選手やカネ持ち男と会合する機会は通常ない。というのも、真のチアは練習、ルーティーンの振り写し、プロモーションイベントに忙しいからである。 LNDは2008年出版の本であるが、1991年に出版されたDEEP以来、チアがカネ持ち男の愛人になるという構造は変わっていない。 「9. 舞台裏の政争」ではNBAチームの内部構造について述べている。 NBAチームは通常バスケットボール部門とビジネス部門の二つに別れている。 バスケットボール部門は選手、監督、スタッフ、広報に関連する全てであり、ビジネス部門はそれ以外の全てである。 「10. 引退」では引退したNBAチアのその後のキャリアについて述べている。 NBAチアの平均的なキャリアの長さは4〜5年であり、複数のプロチームでパフォーマンスを披露する人もいる。 引退後はチームに就職したり、ダンスインストラクターや振付師として活躍したり、全く別の進路に進む人もいる。
LNDの入手難度は中程度で、必要な語学力は中学〜高校レベルである。 LNDの出版年は2008年だが、2018年時点で、Amazonと紀伊國屋書店で新品が定価販売されていた。 ただ、いつまでも新品が販売されているわけもなく、電子書籍版も存在しないとあって、読むのならば早めに購入した方が良い。 必要な語学力は中学〜高校レベルであり、難解な表現や下品な表現もなく、素直に読む事ができる。 この本には難解なポエムが多数収録されているが、それらは読まなくても構わない。 前提となる学習は特にない。NBAチアを写真で見た程度でも理解できる。 LNDは入手難度も必要語学力も大したことがなく、NBAチアに興味がある人は比較的気軽に読む事ができる一冊である。
TIGERはきぐるみマスコットの中の人の手記である。 対象はプロチアで、特にチームマスコットに入っている人は必読だ。 というのも、TIGERは大学チアに所属するマスコットに入っていた人の4年間の記録であり、その経験や手法は日本のマスコットにも通用するからである。 例えば、キッズに話しかけられた時や食べ物をもらった時の対処方法であり、そのロールモデルはミッキーやミニーだとする。 また、単純にマスコットあるあるを楽しんだり、アメリカの大学チアの実情やマスコットキャンプの内容を知る事もできる。 マスコットはチアリーダーズのおまけ的存在とされがちであるが、この本を読めばマスコットの仕事がいかに奥深いかよく理解できる。
ストーリーは次の通り。ブランチはごく普通の女子大生である。彼女にはチアリーダーの友人がおり、 頼まれてスタンツの写真撮影などをしていたが、それ以外はチアとはまるで関係のない人生を送っていた。 そんなある日、憧れのチアリーダーズに参加しないかとの誘いがブランチにあった。 ブランチは舞い上がったが、それは古くて臭いマスコットを着ての参加であった。 戸惑いつつも、マスコットの魅力にはまっていくブランチ。 キッズと触れ合ったり、チアも来ないマイナーな競技にも参加したりして、やがて大学のアンバサダー的存在となる。 ところが、あるアウェイ試合で暴行されて正体がバレてしまう。 マスコットは匿名だからこそ自由なのであり、それができなくなったブランチは引退してマスコットを後輩に託す。 ただ、みんなが忘れた頃にちゃっかりと復活するブランチ。きぐるみなので、復活してもバレる事はなかった。 ブランチは最後にこのように締めくくる。「きぐるみも誰かのチアリーダーであった。」と。
TIGERは読むべき章だけ読んで、読まなくてもよい章は読み飛ばして良い。読むべき章は「1. ピッタリだよ」、「2. アイビー・リーグがマスコット?」、「3. 熱中」、「4. なぜ猫は水が嫌いなのか?」、「5. 中の人の危機」、「6. 晴れか雨か?」、「7. 尻尾の物語」、「8. 恥ずかしがっている毛むくじゃらの生き物」、「9. トラは女だ」、「10. 向こう見ずなトラ」、「11. 一人での活動」、「13. パーティー・アニマル」、「14. パレード」、「15. 無料:同窓会でひと儲け」、「17. フーディーニのように」、「19. マスコット・キャンプ」、「20. キャンパスの大きな猫」、「21. 単なるいたずら」、「22. 余波」、「23. 私の代わりを探せ」、「24. 小さなサプライズ」、「25. 新しいトラのデビュー」、「26. 傷の癒やし」、「27. 感謝」、「28. 仲良し」、「29. トラにケーキはいらない」、「30. レース」、「31. お話の終わり」である。 読まなくてもよい章は、「12. 誰もがコスチュームを着る」、「16. 狙う者、狙われる者」、「18. ライブラリー・タイム」である。 読むべき章にはマスコットの話題が書かれているが、読まなくて良い章にはマスコットとは関係のない大学生活が書かれている。
「1. ピッタリだよ」では著者がきぐるみに入ったいきさつについて述べている。著者はエリートのチアリーダーではなく、ただの大学生であり、ちょっとした偶然からきぐるみを着るようになった。 「2. アイビー・リーグがマスコット?」では著者の大学が所属するアイビー・リーグ(エリート大学の総称)でのマスコット事情を述べている。 「3. 熱中」ではきぐるみに入る事が気にいってきた心境について述べている。 大学マスコットには固有の名前がなく、キッズにサインを書く時は「ボブ・ザ・タイガー」等、中の人が勝手に名乗っている。 「4. なぜ猫は水が嫌いなのか?」ではきぐるみを着て噴水に飛び込んだ時の惨状について述べている。 着ぐるみを着たまま水に飛び込むと不快な上、悪臭がする。 「5. 中の人の危機」では応援に使用していたフラッグがアウェイのファンに取られた事件について述べている。 「6. 晴れか雨か?」ではキッズがきぐるみに食べ物を与えようとして困った時の様子について述べている。
「7. 尻尾の物語」ではきぐるみの尻尾が持ち去られた事件について述べている。 「8. 恥ずかしがっている毛むくじゃらの生き物」では陸上競技を応援した時の様子を述べている。 通常、チアはフットボールか男子バスケにしか参加せず、きぐるみであっても他競技への参加は少ない。 「9. トラは女だ」ではきぐるみの性別について述べている。 日本のきぐるみの性別は一つだが、アメリカの場合、中の人の性別によってきぐるみの性別も変化する。 「10. 向こう見ずなトラ」ではマスコットのスタンツの練習中に足首を負傷した事について述べている。 「11. 一人での活動」ではマスコットの活動が評価され、大学のアンバサダーとなった事について述べている。 「13. パーティー・アニマル」ではOBの結婚式の余興に参加した時の様子について述べている。
「14. パレード」ではニューヨークで実施したハロウィンパレードに参加した時の様子である。 「15. 無料:同窓会でひと儲け」は大学の同窓会の様子について述べている。 同窓会は日本で言う大学祭のような非常に大きなお祭りである。 その祭りにおいて、著者はきぐるみを着たままキッズと話をするのだが、キッズは特に違和感なく受け入れていた。 「17. フーディーニのように」ではアウェイ試合で乱暴な客に建物を包囲された時に、そこから機転を利かせて脱出した時の様子について述べている。 「19. マスコット・キャンプ」ではマスコット向けの泊りがけ講習会に参加した時の様子である。 チアキャンプは日本にもあるが、アメリカではマスコットキャンプも存在する。 マスコットキャンプでは各校のマスコットが一同に会し、グリーティング、ダンス、寸劇などを学ぶ
「20. キャンパスの大きな猫」ではマスコット用の学生証や銀行口座をきぐるみを着たまま取得した時の様子について述べている。 「21. 単なるいたずら」ではアウェイの観客にマスコットの頭を取られそうになった暴行事件について述べている。 この事件で著者が中の人だとバレてしまい、大きなショックを受ける。 というのも、きぐるみは匿名だからこそ自由に振る舞えるからである。 「22. 余波」では事件によって受けたショックについて述べている。 「23. 私の代わりを探せ」では中の人のトライアウトについて述べている。 トライアウトは中の人がわからない状態で実施され、ダンス、表現力、即興能力が試される。 即興は腕立て伏せを命じられるが、きぐるみで腕立て伏せができるはずもなく、失敗した時のリアクションが確認されるのである。 「24. 小さなサプライズ」では正体がバレてもなお協力してくれる人達について述べている。
「25. 新しいトラのデビュー」ではトライアウトに合格しデビューした後輩の中の人について、 「26. 傷の癒やし」では小学校に招待された時の様子について、 「27. 感謝」ではバスケの試合に出場した時の様子について述べている。 「28. 仲良し」では他の大学のマスコットと共演した時の様子について述べている。 アメリカの大学スポーツは険悪な雰囲気で実施されるため、こういった共演は珍しい。 「29. トラにケーキはいらない」は地元野球チームのマスコットの誕生パーティに招待された時の様子について述べている。 パーティに多くのマスコットが招待された中、地元チームのマスコットはヘリに乗って登場した。 「30. レース」ではマスコットの徒競走に参加した時の様子について述べている。 レースに勝つためにマスコットの足の部分を外してスニーカーで走る参加者もいた。 「31. お話の終わり」は総括であり、きぐるみも誰かのチアリーダーであったと締めくくる。
TIGERの読まなくても良い章には著者の大学生活に関するエピソードが書かれており、きぐるみとは無関係である。 「12. 誰もがコスチュームを着る」では新入生歓迎会の様子について、 「16. 狙う者、狙われる者」ではキャンパスで実施された鉄砲ごっこについて述べている。 「18. ライブラリー・タイム」は、警備が厳重な学校図書館にビールの樽をいかに持ち込むかという、 大学でよくあるお遊び的なチャレンジである。
TIGERの入手難度は低く、語学力は高校生レベルで十分である。 TIGERは2013年に電子書籍版がAmazonで発売されており、誰でも簡単に入手できる。 語学力は高校生レベルで十分だが、突然シーンが切り替わったりと内容的に飛躍している部分が多く、 まじめに読み込むとかえって意味がわからなくなる点に注意が必要だ。 TIGERはチアやきぐるみ研究だけでなく、エンターテインメント性もあり、読んでいて楽しい一冊である。
この論文は「健全かつセクシー(Wholesome but Sexy)」という相反する要素を持った女性が、理想の女性像としてNFLチアに見られるとしている。 「健全かつセクシー」は「処女と誘惑」と同義であり、男を性的に誘惑した上で処女のように男を拒絶するという意味として使われる。 論文ではこの要素が確立した経緯を、アメリカにおけるチアの歴史としてまず紹介している。 次に、日本上陸後はチアは日本人に受け入れられやすい形に変質したとする。 その一例として、2015/06/02の「マツコの知らない世界」に出演した元NFLチアの齋藤佳子と、彼女のチームの日本人チアリーダーズの違いについて考察する。 両者の違いとは、斎藤の濃いメイク(健全かつセクシー)と日本人チアリーダーズの薄いメイク(健全かつかわいい)の違いであった。 増田は次のように総括する。 「日本人NFLチアが持ち帰ったのは現代女性の理想型というよりも、誰かを純粋に応援するという奉仕精神であった。」
この論文はアメリカにおけるチアの歴史と日本での変遷について研究している。 田村は応援チアと競技チアの歴史を考察し、チアはアメリカの国民性が生み出した活動の一つであると総括した。 その国民性とは、1920年代の男性中心社会、1940年代のリーダーシップの重視、1970年代の社会への女性の参画である。 この変遷と共にチアも変質し、女性を認める社会的背景、性の強調、女性の努力により、こんにちのチアが存在する。 日本では「応援団」の付属品として活動を開始した事がチアの発展の妨げとなったとしている。 チアの持ち味である「元気良さ」「軽快さ」を拒否して、男性が主導権を持っている雰囲気の中で性的な要素が先立ち、 表面的なモノマネのチアになった。
田村は現在の日本のチアの浅薄さについて批判し、身体的練習の重要性を述べている。 1950年代、ロン・ハンフリーは男女のチアに必要な要素として次の4つをあげた。
1.正確性このうち、日本のチアは「目の表情」といった観客へのアピール技術のみを追い求めている。 アピール技術だけでは身体的技術を習得できるはずもなく、貧弱な演技に自己満足しているのが現状である。 その上で田村は次のように総括する。 「練習こそがチアである。身体の鍛錬を怠り、安全性を重視せず高度な技の完成を要求することは良い指導者とは言えない。」
この論文はどの年代がどのチア活動を支持しているかを調査している。 調査対象となった年代は高校、短大、大学であり、チア活動は応援、エンターテイメント、競技会の三つに分類している。 調査によると、どの年代も競技会を最も支持しており、応援やハーフタイムでのエンターテインメント活動は競技に比べると支持が低かった。 大学より短大で、短大より高校で競技会の支持が高かった。 また、大学より短大で、短大より高校で応援の支持が低かった。 中島らは言う。「本来チアは応援活動が基本であるが、現在の日本では応援活動の機会が少なく、チアに対する一般の理解も薄い。」 その上で次のように洞察している。 「日本におけるチアは、『応援』や『エンターテイメント』よりも、競技会への参加を第一目的とした競技スポーツとして発展する可能性が高い。」
この論文はチアの傷害の現状を調査し、安全面の対策を究明している。 対象は「ジャパンカップ2001 日本選手権大会」の大学部門に出場した57校である。 研究によるとトップの70%が受傷した経験がある。 怪我の部位で最も多いのが「大腿・足」。次いでトップは「膝」、ベースとスポッターは「背部」。 怪我の種類で最も多いのが「ねんざ」で次いで「打撲挫傷」。 怪我の発生状況で最も多いのが、トップは「転落」、ベースとスポッターは「キャッチ」。 活動休止期間で最も多かったものはトップが「1〜7日」、ベースとスポッターは半数が「休止なし」。 大学チアの90%は入学後にチアを開始し、一年後くらいに怪我が多くなる。この頃、基礎的な練習から高度な練習に入る。
この論文はジャパンカップ2002を調査し、成績順位と怪我・傷害には何の関係もない事実を証明している。 これは、技の難度が高い成績上位チームであっても、技の難度が低い成績下位チームであっても、同じように怪我をするという意味である。
この論文はポジション別の怪我の状況を調査している。ポジション別の怪我は、トップ29.4%、ベース48.5%、スポッター22.1%であった。 倉持らは怪我以外にも、ポジション別の体格やチア・ダンス経験も調査している。 それによると、トップは体格が小さく、スポッターは身長が高く、ベースはその中間であった。 大学チアのトップの身長は153.4±3.9、体重45.1±3.5。 スポッターの身長は163.8±13.0、体重53.5±4.9。 ベースの身長は158.3±3.2、体重51.6±3.8。 その他、バレエ経験者32.7%、器械体操27.1%、ダンス23.3%。 チア開始時期は中学1.3%、高校10.7%、大学82.2%であった。
この論文は怪我は成績に関係なく発生している事を証明している。 また怪我に関する調査だけでなく、練習に関する意識調査も興味深い。 例えば、優勝経験がある上位チームは練習への不満による退部は「考えたことがない」が79.2%だったが、 下位チームは練習をしながら退部を考えることが「たまにある」が100%だった。 これは勝てない競技チアチームは競技者の獲得も難しい事を意味する。 さらに、成績上位チームは得点が高い組み体操に重点を置いて練習しているが、下位チームは基礎体力に重点を置いて練習している調査結果も出した。
この論文は試合3ヶ月前と試合2日前の心理的コンディションを調査し、試合2日前の方がメンタル的に良くなっている事を証明している。 田中らは試合3ヶ月前と試合2日前の心理的コンディションの変化を調査した。 それによると、「技術の自信」「チームとしての協調性」が良好になり、試合2日前の方がメンタル的に良かった。 その一方、疲労は蓄積しており、大会1週間前からの練習は疲労を軽減させる身体コンディション作りの考慮が推奨される。
この論文はフルツイストという技における上級者と初心者の違いを説明している。 フルツイストの早期習得にはひねりの左右差に関係なく練習し、バランス能力を養う事が重要。 上級者は空中でバランスが保たれているが、初心者は保たれていない。
この論文は大学が運営したチア教室の2年間のレポートであり、チア教室運営の参考となる。 このチア教室は満足度が高かった。その要因は次の通り。
1.施設等の環境整備課題は、大学施設の確保、定期的な学生指導者の確保、大学内への車の乗り入れ、成果発表の場の確保であった。 子供は一連の流れの中でストーリー性のあるダンスが好んだ。 謝礼は一回1,500円であった。
この論文は以下のURLで閲覧可能である。(2019/07/22)この論文はチアの体力的特性とは何か、またチアに求められる体力要素は何かについて研究している。 チアの体力的特性とは筋力、柔軟性、筋パワーであり、これらはチア競技を続ける事によって向上する。 チアに求められる体力要素とは筋力、柔軟性、敏捷性、筋パワーであり、高度な技術を目指すのならばこれらを向上させなければならない。 こういったチアに求められる体力要素は体操競技と似ていると、論文は結論付ける。
この論文はチア経験者と一般人の体力とバランス感覚を比較し、チア経験者は柔軟性とバランス感覚が良いと述べている。 体力に関しては瞬発力、敏掟性、柔軟性、腕肩の筋力(腕立て伏せ)、上体そらしの5つで比較し、両者に差があったのは柔軟性のみであった。 チア経験者内においては、柔軟性に関してトップとスポットの成績がベースよりも良く、腕肩の筋力に関してはトップの成績が良かった。 バランス感覚に関してもチア経験者の方が成績が良かった。 チア経験者内においてはトップの成績が良く、ベースとスポットの間には差がなかった。
この論文は以下のURLで閲覧可能である。(2019/07/29)この論文はアームモーションを強化するためのトレーニング方法を調査している。 調査によると、キャンドルスティックからバケツへの拳の切り替えが、Tモーション、ハイVのブレーキングや終了位置の調整に関与している。
こういったチア研究が活かされる事なく埋もれているのは実に残念である。 研究が何の役に立つのか、研究者自身もよくわからない事は多い。 予算を獲得しなければならないため、それっぽい建前は述べるのだが、「いつか役に立つかもしれない」が研究者の動機である。 例えばAIに欠かせないベイズ統計は1763年の研究であるが、それが役に立つとわかったのは200年後の現代だ。 ここで紹介したチア論文はすぐに役に立つかもしれないものであり、国会図書館で閲覧することが可能である。 仮にチアの統一機関が存在していたのなら、各個で閲覧する事なく、一度の閲覧で済む。
この本はプロチア向けの教養本である。 チアの品格は教養の有無で決まる。 教養とはチア以外の知識であり、それをチアと関連付ける能力である。 教養があり高い品格を誇るチアは、チア以外の知識をチアと関連付け、全く新しいチアを生み出す。 一方、教養がなく低い品格のチアは、1cmでも高く、1mmでも大きく見せるという、身体能力だけに頼ったチアを見せる。 両者において、前者が優れている事は明白である。 というのも、チアは陸上競技ではなく、1cm高くても、1mm大きくても誰も測定せず、評価できないからだ。 この本は普遍的な内容の本であり、チアに必要な教養を具体的に述べるのではなく、チアがどのようにすれば必要な教養を身につける事ができるのかを説明している。
チアの品格の読むべき章は全てであり、読み飛ばす章はない。 チアの品格は全4章に分かれており、「第1章 愛」「第2章 金」「第3章 勝利」「第4章 哲学」で構成されている。 これらの章は全て重要な内容が書かれており、読み飛ばして良い内容は一つもない。 チアの品格は日本語で書かれているため、最初から全て読んでも特に苦にならないはずである。
第1章にはチアとして男から愛される方法が書かれている。 チアが男から愛される事はプロチアにおいて最も重要である。 というのも、多くの男に愛されると本人のやる気と美貌が高まるからである。 男に愛されると、それによってやる気が生じ、やる気がチアを美しくし、それがさらに男を愛させるという、好循環が生まれる。 この好循環はチアのやる気と美貌を高めていき、その結果としてパフォーマンスが向上する。 プロチアは男からめちゃモテになる事が最重要かつ最優先であり、この章にはその方法が書かれている。
第2章にはチアチームとして現金を得る方法が書かれている。 チアチームが現金を得る方法とは、キッズチア、スポンサー、ファンの3つである。 これらの方法により、チアチームは自分自身で現金を獲得しなければならない。 というのも、自分のカネで運営する事により、チアがチームから自立しているとみなされるからである。 自立したチアは自由なパフォーマンスを披露する事ができ、自らの魅力をさらに高める事ができる。 一方、金銭的に縛られているチアは、カネと同時にあれこれと注文が入り、自分を高めるパフォーマンスを披露する機会は制限される。 活動費を自分で稼ぎ、誰からも邪魔されない自由なパフォーマンスを披露する事によって、プロチアはさらに輝くのである。
第3章にはチアとして勝利に貢献する方法が書かれている。 チアは会場の一体感を人為的に作る事により、試合の勝利に貢献する事が可能である。 一体感とは選手・チア・観客が一つの感情を共有している状態を意味する。 感情の共有とは喜怒哀楽を共にする事であり、その結果、三者が試合結果に責任を持つようになる。 試合結果の責任が選手だけの場合、観客はのんびりと見ているだけだが、 「負ければそれまで」という結果責任を伴うのであれば観客も必死で応援する。 選手・チア・観客が一つになった応援は選手の背中を後押しし、結果として勝利に貢献できる。
第4章にはチアに必要な哲学が書かれている。 哲学とは物事の本質を知る能力である。 物事の本質を知る事ができれば、純金のチアリーディングなのか、金メッキのチアリーディングなのかを判別する事ができる。 プロが目指すべきチアリーディングとは、当然純金のチアリーディングである。 純金のチアリーディングを見せるためには、チアとは何か、ダンスとは何かといった、根源的問いに回答する必要がある。 こういった根源的問いに対する回答もきちんと書かれているが、より重要なのは、そういった根源的問いに対して自分の頭で考えて理解する 重要性を説いている事にある。 結局のところ、自分の哲学は自分の中にしか存在せず、この本はそれを引き出す手助けをしてくれる。
チアの品格の入手は極めて容易であり、日本語で読む事が可能である。 チアの品格はインターネットで公開されており、誰でも自由にアクセスする事が可能である。 また、日本語の文書であるため、語学力も必要ない。 内容は多少難しいかもしれないが、必ず読んでおきたい一冊である。
この本は以下のURLで閲覧可能である。(2020/01/29)美のルールは日本人DCCによって書かれた自伝である。 対象はプロチア、研究者で、海外チアやDCCに興味がある人におすすめだ。 この本の見所はDCCオーディションの部分である。 というのも、日本人でDCCに合格した人のオーデ体験談は、この本にしか掲載されていないからだ。 (詳しくはアルビレックスチアリーダーズの章を参照) この本を購入する事は難しいが、国会図書館で閲覧する事は可能である。
オーディション以外の金言は次の通り。
「自然な笑顔と作り笑顔の違いは、自分が楽しんでいるか否かの違いである。」もっと輝こう!は日本人NFLチアによって書かれた自伝である。 対象はプロチア、研究者で、海外チアや49ersチアに興味がある人におすすめだ。 三田はDCCで安田は49ersチアという違いはあるものの、どちらも日本人NFLチアの自伝として貴重である。 もっと輝こう!も見所はオーディションだ。 安田の場合7人で渡米しており、互いに協力する事ができた。 現地に到着したのはオーデの数日前で、ホテルの駐車場で練習しながらコンディションを整えていた。 オーデ中、PCASに49ersチアDとして登場した人物がベテランチアとして登場し、トイレで泣いていた安田を慰めたエピソードもおもしろい。 安田はファイナルまで滞在できず、ビデオ審査となったが、見事合格した。 合格後の手続きとして、ビザの取得、部屋の借り方、現地での生活なども書いている。 安田は英語を話せるわけではなかったが、合格してから勉強しても十分間に合った。 また、面接時は面接官がゆっくりと話しかけてくれた。 英語の勉強として参考になったのは他のメンバーのeメールでの言い回しであった。
この本はチアを理解するための一冊であり、チアの歴史、競技チアの技術、トレーニング、動作を紹介している。
チアリーダーズとは「自分自身の元気な姿を見せ、周りの人に元気をさせ、勇気を与える事によって人々に生きる喜びと楽しさを身を持って伝えてくれる人達」とエドらは定義する。 チアの歴史に関しては、1898年、ミネソタ大学で初代エール・マーシャルに選ばれたジョニー・キャンベルが、野球観戦に来た人々にエールを教えたのがチアの起源としている。 また、1970年代のUCA(Universal Cheerleaders Asociation)がスポーツとしてのチアの起源とする。
エドらはチアの効用として以下をあげている。:精神的に安定し、明朗活発となる。体力・持久力・エアロビック能力を高める。チームワーク、優美さ、平衡感覚、リズム感、音楽的センス、知識、教養、礼儀、他人への思いやり、マナー、友達が増える、国際親善、健康管理、健康美。 スポーツ医学的効果は次の通り。:エアロビック効果とリハビリ効果が高い、ストレス解消、胃腸・循環器・呼吸器系の活性化、協調性と協力性が身につく、集中力と精神の安定に寄与、音楽センス、リズム感が身につく。
競技チアの事故の80%は練習中に発生するとしている。 また、競技チアにおける観客の心得として次をあげている。
1.エールを求められた場合、大きな声を出すこれらの心得は、プロチア鑑賞の心得と同じである。
この本はチア指導者向けの本であり、安全からチア技術の指導方法、パフォーマンス構成の作り方が記載されている。 また、チア指導者の観点におけるチアの歴史についても述べている。 それによると、チアは第二次大戦前の第一期、第二次大戦後の第二期、1975年以降の第三期の3つに分割される。 第一期のチアではエールや応援歌を指揮する活動がほとんどであった。 第二期では体操選手のような曲芸的演技で重大事故が増えた。 第三期では安全活動が重視されるようになり、現在に至っている。
この本はチア指導者向けの本であり、安全、スタンツ、競技会について記載されている。 チアは練習中が一番危険である。次いでサイドラインでの応援、ハーフタイムでの演技、競技会での演技の順である。
この本はチアリーディングとチアダンスの違いについて述べている。 チアダンスとは体操スキルを使用しない、ダンスのみの競技である。 審査は減点方式であり、ショーマンシップ、テクニック、振付構成、実効性(フォーメーション、シンクロ)が求められ、全体評価もされる。
ダラスで見られる南部的保守思想を知るためには最適の一冊である。 DCCとはアメリカの恋人であるが、その原型は、殿方の前で決して金切り声を上げない「南部レディ」である。
この記事はNFLチアの収入がいかに少ないかについて書いている。 NFLチアの報酬はNFL関連の仕事では最悪レベルで、法に定められた最低賃金にも達していない。 具体的な金額は、1試合125ドルで、リハーサル・練習・慈善イベントは無給である。 さらに、ユニフォームのクリーニング代は自前であり、体重が増えると「ベンチ入り」となり報酬はなくなる。 こういった悪条件ゆえ、2014年、まずオークランド・レイダーズのチアが仲間を代表して待遇改善を求める訴訟を起こした。 この集団訴訟は昨年9月に和解し、チアに1,253ドルが支払われる事となった。 その後もシンシナティ・ベンガルズ、バッファロー・ビルズ、タンパベイ・バッカニアーズのチアが次々と訴訟を起こしている。
訴訟によりレイダーズは40人の専属チアに時給9ドルを支払うことにした。 チアが薄給に耐える理由は、干されるかもしれないという恐怖と、キャリアアップへの期待の二つである。 スザンヌの例を見てもわかる通り、チームに楯突くチアは干されてしまい、それどころか「他に変わりはいくらでもいる。」という理由で解雇にすらなりかねない。 また、チア活動は引退後のダンスやエンタメ分野におけるキャリアアップに極めて有効なため、将来を見据え、チアは耐える事になる。 恐怖と期待によりチアは口をつぐんできたが、訴訟によってようやく給与が支払われる事になった。 しかしながら、レイダーズチアに支払われた時給9ドルはカリフォルニア州の最低賃金であった。
チアの才能が食い物にされていると下院議員がNFLオーナーを批判し、待遇改善の法律を提出した。 この問題は議会でも取り上げられる事となる。 カリフォルニア州議会のロレーナ・ゴンザレス下院議員がチームはチアの才能を食い物にしていると 億万長者のオーナー達を厳しく批判し、待遇改善のための法案を提出した。 またNFLもトラブルを避けるためにチアの契約条件を一律にしようとしている。 bリーグの千葉ジェッツには固定給チアが何名も所属しており、それよりもはるかに大きいNFLで同じ問題を解決できないのは、 チームにその意思がないと言わざるを得ない。
この記事はオークランド・レイダーズチアの賃金体系とチームへの訴訟について書かれている。
レイダレッツ(オークランド・レイダーズチア)には様々な規定が存在し、ヘアやメイクは自腹で整えなければならない。 オーデに合格し契約書にサインするとチームから「極秘バイブル」が渡される。 そこにはテーブルマナー、選手から誘いを受けた時の断り方、レイダレッツの一員としての恥ずかしくない外見を維持するための 詳細な規定が書かれている。 また「極秘バイブル」には自分の写真が貼られており、その隣には女優の写真が貼られている。 女優は真似すべきセレブであり、髪型、色、カールの直径まで忠実に再現しなければならない。 再現に日焼けサロンやネイルサロンが必要であっても、その費用は自腹である。
レイダレッツには多種多様な仕事が存在し、罰金刑もあるが、その報酬は1,250ドル(約12万5,000円)だけである。 NFL26チームのうち最低賃金を支払っていないチームは1つ、一切金を出していないチームは6つある。 その上で、体重測定では自分の標準体重より2kg以上オーバーしてはならず、週3日の練習、年間数回のイベント、写真撮影、 ホームゲームでの9時間の勤務をする。 シーズン前は、ダンス合宿、水着カレンダー撮影、シーズン後は10日の慈善イベントに参加しなければならず、 10回参加できなければオフィスで事務作業である。 ポンポンを忘れたり遅刻すると15〜125ドルの罰金であり、選手と仲良くしていると解雇される可能性がある。 この条件であっても報酬はシーズン終了後の1,250ドルだけであり、無報酬の可能性もあると契約書には書かれている。
娘の将来を心配した母親が署名運動を開始し、レイダレッツOGが署名に参加して集団訴訟となった。 署名サイトchange.orgで「一般的な生活水準が守られる賃金をチアに支払ってほしい」とNFLに訴える署名が始まった。 署名運動を始めた人物はカリフォルニア州在住の母親であり、14歳の娘が将来お金に困ることが無いようにとの願いがこめられていた。 この署名にレイダレッツOGが加わり、過去4年間に初属していたチア全員が参加する集団訴訟となった。 訴訟にはOGの一部が異議を唱えたが、入団4年目の現役メンバーのサラも加わった。 サラは言う。「これはダンスが好きという夢をネタにした策略です。」
レイダレッツの訴えは、チアが季節的業務に該当するため、最低賃金の対象外とされた。 2014年1月22日、訴訟の代表になったレイシーが契約書を弁護士に見せ、最低賃金が守られていないと主張した。 この主張に対し、米労働省がレイダッツの労働環境を調査する。 しかしながら、チアは「季節的業務」のため、連邦政府の最低賃金に関する法律の対象外との結論を出した。 米国では州の労働法が連邦政府の労働法より重視されることもあり、州の労働法が適用されると最低賃金違反となる。 DCCがラブボートを撮影した時も、州の労働法が存在しないテキサス州では無給だったが、州の労働法が存在するハリウッド(カリフォルニア州)では賃金が支払われた*1。 レイダーズは提訴された後NFL内で仲裁されるべきだと裁判所に申し出たが、雇用者が被雇用者に仲裁を強要することは問題視されている。 ファンは正当な賃金が支払われるべきだとして、この訴訟を支持している。
この記事は男性だけで構成されたチア部の紹介記事である。 男子チア部とは、急進的チア、ゲイとレズビアンのチア、シルバーチア、競技チアのような、 「チアリーダーのイメージとは異なるチアリーダーズ」の一つである。 男子チア部は、1920年代に始まり1970年代に絶滅した、体操が中心の男性チアリーダーズとは異なる。 また、テキサスA&M大学やバージニア州立軍事学校で見られるような、戦闘指揮官を養成するためのチアリーダーズとも明らかに異なる。 男子チア部は近代的女性チアリーダーズを元としており、女性には難しい身体的アクションを強調した、エンターテインメント集団である。
この記事はエレベータの業界雑誌に掲載されたチアリーディングの記事である。 説明の必要はないと思うが、エレベータとは建物に設置され人や荷物を上階や下階に運ぶ設備の事だ。 エレベータは電気設備会社が施工しており、日立もそんな会社の一つである。 2014年当時、日立には日立サンロッカーズ(男子バスケ)、ルネサスハリケーンズ(アメフト)、茂原アルカス(女子バレー)という スポーツチームが存在し、BIG SIX BLAZERSという企業チアリーダーズが応援していた。 この記事は、スタンツにおけるエレベータつながりもあり、昇降機事業部へ配属されているBIG SIX BLAZERSの杉原真規子が インタビューを受けている。 当然ながら、この記事以外はエレベータ業界の動向や技術記事で紙面が埋まっており、異質な華やかさであった。
この記事は中小企業診断士向けの業界紙に掲載されたチアリーディングの記事である。 記事では新宿駅前の路上でサラリーマンを応援する活動をしているチアを紹介している。 中小企業診断士と駅前チアリーディングは、働く人を応援するという共通点がある。
この記事はスポーツトレーナー向け業界紙に掲載されたチアリーディングの記事である。 スポーツトレーナー向けの記事だけあって、その内容は怪我の予防や減少に関するものだ。 具体的には、「チアはジャンプに関する怪我が多いが、環境を整える事により予防できる。大きな会場で使用されるマットや、本番ステージの近くにアップ用スペースがあると怪我は減少する。」と言う。 実際、チアリーディング文化と怪我は切っても切り離せない関係である。 というのも、パフォーマンスに高難度のスタンツやピラミッドが組み込まれているからである。 1996年、ネブラスカ大学リンカーン校に通学するチアリーダーのイェイセンが練習中に重症を負った時、大学は補償として210万ドルを支払った*2。 この事故を受け、2002年3月、ネブラスカ大学リンカーン校の運動ディレクターであるビリー・バーンは、2002年秋よりチアリーディングは地面の上だけで活動する事とした*3。 1998年、アトランティック・コースト・カンファレンスはバスケットボール大会において高く飛ぶスタンツを禁止し、 イリノイ州高等学校協会はバスケット・トスと2段以上のピラミッドの構築を禁止している*4。
この映画はダラス・カウボーイズ・チアリーダーズの黄金時代を築き上げた、スザンヌ・ミッチェルのドキュメンタリー映画である。 見所はカラーで再現されたDCC黄金時代と、生前のスザンヌのインタビューの二つだ。 DEEPでも黄金時代は描かれていたが、何枚かの白黒写真は掲載されているものの、あくまで文字から想像するしかなかった。 しかしながら、この映画には当時のテレビ映像、映画、ホームビデオ、インタビュー、カラー写真が満載であり、 白黒だったDEEPの世界を鮮やかなカラーで再現している。 また、映画撮影の数年後に他界したスザンヌのインタビューも貴重である。DEEPでは批判されるだけだったが、ここでは本人の見解を聞く事ができる。 スザンヌの物語とはDCCの物語であり、DCCの成功をより詳しく知りたい人は必見の映画である。
洋書に興味を持った人のために、ここに洋書の入手方法を記載する。 洋書の購入には、欲しい洋書の検索、購入サイトの決定、購入手続き、到着待ちの4つのステップが必要である。 最初にAlibrisのような洋書だけが検索結果として出力されるサイトで検索する。 次に購入サイトを信用や税金の支払先、自分の支払い方法に合わせて選ぶ。 販売元を決定したら、実際に送金して購入する。 洋書が手元に届くまで最低3週間は待つ。 洋書は値段が高く、到着まで時間がかかり、新品であってもボロボロの状態で送られてくる事を覚悟しておく事。
検索は文房具がヒットしないAlibrisで実施する。 検索に用いるサイトと購入に用いるサイトをわざわざ分離する理由は、ノイズの除去にある。 2019年現在の購入サイトには、本以外にノート(notebook)が検索として引っかかる場合がよく見られる。 例えば、cheerleadingという単語で検索しても、「チアノート」として、よく似た業者のよく似たノートが大量に引っかかる。 「チアノート」は本当にただの真っ白なノートであり、わざわざ海外から購入する理由が見当たらない。 こういったノイズを除去し、純粋に本だけを検索するには、文房具を取り扱っていない書店サイトで検索する必要がある。
本の値段は紙の新品が\1,000以上、電子書籍が\1,000以下、中古本が\2,000以上である。 紙の本の新品は\1,000〜\3,000程度である。 これは国際間送料が無料かつ国内送料が非常に安いためであり、新品はアメリカ国内とほぼ同じ値段で購入できる。 電子書籍は\1,000以下である。電子書籍は値段が安く、購入後すぐに読む事ができるが、写真やイラストは非常に少ない。 というのも、写真やイラストの画像データの通信費用が著者に発生するためであり、紙の本には存在する写真やイラストが電子書籍には存在しない場合が多々ある。 中古本は最低でも\2,000以上である。というのも、国際間送料が約\2,000だからである。 中古本は1冊1ドル程度で販売されているが、国際間送料が\2,000加算され、さらに国内送料が\200程度加算される。
購入サイトを信用や税金の支払先、自分の支払い方法に合わせて選ぶ。 信用できる購入サイトの候補は(注:経験上)紀伊國屋書店とAmazon Japanの二つである。 紀伊國屋書店は日本の企業であり日本に税金を払っているが、Amazon Japanはアメリカの企業であり日本に税金を払っていない。 この違いは極めて大きい。目の前の数百円を節約する事により、家の前の道路が補修されなかったり、橋がかからなかったりする。 この違いをよく考えて両者を比較しなければならない。余談ながらAmazonはタックスヘイブン利用企業であり、アメリカにすら税金を払っていない。 また安全な支払い方法も異なり、紀伊國屋書店は代金引換、Amazon Japanはコンビニ決済である。 検索に使用したAlibrisでは購入した事がないので詳細不明である。
代金引換は本の受け取り時に支払い、コンビニ決済はコンビニの機械を操作して入金する。 代金引換の場合、事前にメールで知らされた日と時間帯に荷物が到着するので、荷物と引き換えにその場で代金を支払うだけである。 コンビニ決済の場合、まずネット上で本の購入手続きを行い、支払い方法の選択まで進める。 ここまで進めると、本の代金と送料が画面に表示される。 本の代金には送料が含まれているものと、含まれていないものの2つのパターンがある。 送料が含まれているものであっても、外国→日本の送料だけで、国内配送の送料は含まれていない場合がある。 代金と送料がわかったら、コンビニに設置してある機械で代金分のAmazonポイントを購入する。この時、手数料は発生しない。 Amazonポイント購入後、支払い方法選択画面でAmazonポイントを選択し、購入する。
本の到着には最低3週間を必要とし、美品が届く事はまずない。 アメリカからの本の到着に必要な期間は最低3週間であり、これを短縮させる方法はない。 本の追跡は日本に到着するまでは不可能である。 日本に到着後、代金引換の場合、国内配達業者によっては追跡可能である。 可能な場合、日本到着時にメールが届き、本がどこの配送センターにあるのか知る事ができる。 なお、まれに日本の倉庫に目当ての洋書が存在する時もあり、その場合は数日で届く。 手元に到着した本が美品である可能性はほぼない。 新品であってもボロボロの本が届くので、中古だとさらにひどい状態の本が届く。 中古の場合、梱包材すら使わずに発送する事がある。
届いた本がコンビニマンガのような安い作りであっても、それは正しい本である。 アメリカの本にはペーパーバックとクロース(ハードカバー)の二種類が存在し、そのほとんどがペーパーバックである。 ペーパーバックとはブックカバーがついておらず、本体の表紙に直接カラー印刷がされている本である。 日本ではコンビニマンガ、電化製品のマニュアル、ちょっとしたガイドブック、ハンドブック等でよく見られる、使い捨ての安い製本である。 アメリカではこの安い製本が主流であり、高尚な内容の本であってもペーパーバックで販売されている。 クロースと呼ばれるカバー付きの本も一応存在するが、滅多に見かけない。 クロースは日本の製本と変わらないが、どちらにせよ手元に届くものはボロボロであり、「読めればOK」のペーパーバックがおすすめである。